前回、「葦原中つ国(あしはらのなかつくに)の平定」の話をお届けしました。建御雷神(たけみかづちのかみ)が大国主神(おおくにぬしのかみ)を説き伏せ、出雲(いずも)の国は無事に天(あめ)の側へ譲られました。地上の統治権は整った。あとは、天(あめ)から誰かが降りてくるだけです。
その「誰か」こそ、今回の主人公・邇邇芸命(ににぎのみこと)です。正式には天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)という、息継ぎが必要なほど長い名前を持つ神様ですが、ここでは邇邇芸命(ににぎのみこと)、あるいはニニギと呼んでいきます。
古事記(こじき)や日本書紀(にほんしょき)を初めて読む方にも分かるように、まずは物語をやさしくたどり、そのあとで「実際にはこうだったのではないか」という視点を加えていきます。今回もいつも通り、物語と学説の両方を楽しんでいただければと思います。
物語――天孫、ついに地上へ
葦原中つ国が平定されたと聞いた天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、当初、自分の息子である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を地上に降ろすつもりでした。ところが天忍穂耳命は「わたしが天(あめ)の浮橋(うきはし)まで来て下を見たところ、ちょうど子どもが生まれたので、その子を降ろしましょう」と申し出ます。その子こそが邇邇芸命でした。
天照大御神は孫であるニニギに、三種の神器(さんしゅのじんぎ)――八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ、この場面では天叢雲剣〈あめのむらくものつるぎ〉とも)――を授け、地上を統治する証としました。さらに思金神(おもいかねのかみ)、手力男神(たぢからおのかみ)、そして天岩屋戸(あまのいわやと)神話でも活躍した天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとだまのみこと)・天宇受売命(あめのうずめのみこと)・伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)・玉祖命(たまのおやのみこと)という五柱の神々、いわゆる五伴緒(いつとものお)を従者として付けました。
一行が天(あめ)の八重にたなびく雲を押し分けて降りようとすると、天と地の分かれ道に、異様な姿をした神が立ちはだかっていました。鼻の長さは七咫(ななあた)、背丈は七尺(ななさか)余り、目は八咫鏡のように爛々と光り輝く――そんな異形の神です。恐れをなした一行が天宇受売命に「誰なのか尋ねてきなさい」と命じると、その神は「私は国津神(くにつかみ)の猿田彦(さるたひこ)。天津神(あまつかみ)の御子(みこ)が降りてこられると聞き、道案内をしようと出迎えに参りました」と答えました。
こうして猿田彦の先導のもと、ニニギの一行は「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くじふるたけ)」に降り立ちます。ニニギはこの地を評して「此地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の御前(みさき)を真に来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」――つまり「ここは朝日も夕日もよく差し込む、とても良い土地だ」と満足し、ここに宮殿を建てて住むことにしました。
その後ニニギは、笠沙の岬で美しい娘、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と出会い、求婚します。娘の父・大山津見神(おおやまつみのかみ)は喜び、姉である石長比売(いわながひめ)も一緒に差し出しました。ところが石長比売は容姿が優れなかったため、ニニギはこれを送り返し、木花之佐久夜毘売とだけ結婚してしまいます。大山津見神は嘆いて言いました。「二人の娘を一緒に差し出したのは、石長比売を妻にすれば天津神の御子の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように栄えるだろうという誓いを込めてのことでした。石長比売を返してしまったからには、天津神の御子の寿命は、これから木の花のようにはかなくなるでしょう」――これが、人間(そして神の子孫であるはずの天皇家)の命に限りがあることの由来だとされています。
実際には――「降臨」は、どこで何が起きたのか
さて、ここからが今回の本題です。「天から人が降りてきた」というファンタジーの奥に、どんな歴史的な出来事が隠れているのか。近年の研究や考古学の成果もふまえながら、いくつかの角度から見ていきましょう。
高千穂はどこか――「聖地」をめぐる千年来の論争
まず驚くべきことに、「高千穂」の場所そのものが、実は今も特定されていません。有力な候補地は二つあります。ひとつは宮崎県北部の高千穂町(たかちほちょう)、もうひとつは宮崎県と鹿児島県の県境にそびえる霧島連山(きりしまれんざん)の高千穂峰(たかちほのみね)です。
古事記は「日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気」とだけ記し、日本書紀にいたっては本文と「一書(あるふみ)」と呼ばれる異伝を合わせて六通りもの表記が並び、山の名前や地名が微妙に食い違っています。当時の「日向国(ひむかのくに)」は、現在の宮崎県だけでなく鹿児島県の一部まで含む広い地域を指していたため、この記述だけではどちらとも決めがたいのです。高千穂町側は「襲(そ)」という日本書紀の地名が、後の贈於郡(そおのこおり、現在の高千穂周辺)に通じることなどを根拠に挙げ、霧島側は火山地形の描写との一致を根拠に挙げます。さらに厄介なことに、神話の地名が先にあって、後から実在の地形にその名前が当てはめられていった可能性も指摘されています。つまり「高千穂」という地名は、最初から特定の山を指していたのではなく、後世の人々が「ここが神話の舞台にふさわしい」と考えた場所に、後付けで冠された可能性もあるのです。神話の舞台探しというのは、私たちが思う以上に、後の時代の人々の願望が入り混じった営みだったのかもしれません。
「天孫降臨」は勢力移動だった、という見方
多くの歴史研究者は、天孫降臨神話を、北部九州(現在の福岡県周辺)にいた渡来系(とらいけい)、あるいは稲作技術を持った有力な勢力が、南下して日向(現在の宮崎・鹿児島県境あたり)へ拠点を移した出来事の記憶ではないか、と見ています。
弥生時代、日本列島には大陸や朝鮮半島から水稲耕作の技術が伝わり、まず北部九州で稲作文化が花開きました。その後、稲作とそれに伴う政治的なまとまりが列島各地に広がっていく過程で、ある有力な氏族集団が南九州へ移住し、在地の勢力と結びついて新たな拠点を築いた――そうした史実の記憶が、「天から神が降りてきた」という神話的な表現に置き換えられたのではないか、という解釈です。
國學院大學の研究でも、天孫降臨の本質は単なる領土の獲得ではなく、地上に稲作を根付かせるという「使命」にあったと位置づけられています。ニニギが治めることになった国の名は「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほのくに)」――稲穂が幾千年、幾百年も実り続ける国、という意味です。天孫降臨とは、天と地の神々が力を合わせて進めた、いわば壮大な農業プロジェクトの開始宣言だった、という読み方もできるのです。
猿田彦は「敵」ではなく「案内人」――在地勢力との共存
異形の姿で一行を待ち構えていた猿田彦(さるたひこ)は、国津神、つまりもともと地上を治めていた側の神です。ここで注目したいのは、猿田彦が天津神の一行と戦うのではなく、自ら進んで道案内を買って出ている点です。これは、大国主神の国譲りのように交渉や武力の気配が漂う場面とは対照的に、新しくやって来た勢力と、もとから土地にいた勢力とが、比較的穏やかに手を結んだ様子を描いているように見えます。
考古学的に見ても、南九州には縄文時代以来、独自の文化を育んできた在地の集団(のちの隼人〈はやと〉と呼ばれる人々につながるとされます)が存在していました。天孫降臨神話が「対立」ではなく「先導・協力」という形で語られていることは、外からやって来た勢力が、武力による制圧だけでなく、在地の有力者と縁を結び、婚姻や祭祀の共有を通じて地域に根を下ろしていった過程を反映しているのかもしれません。実際、のちにニニギが妻とする木花之佐久夜毘売の父・大山津見神は、山や国土を司る国津神であり、ここでも天津神と国津神の結びつき、つまり外来勢力と土着勢力の融合というモチーフが繰り返されています。
さらに言えば、猿田彦の容姿の描写――長い鼻、爛々と光る目、大きな体――は、のちの時代に天狗(てんぐ)のイメージの原型のひとつになったとも言われるほど強烈です。この誇張された描写は、猿田彦が単なる脇役ではなく、外から来た一行にとって畏怖すべき、それでいて味方につければ心強い、在地の有力な首長だったことを暗示しているのかもしれません。降臨後、猿田彦は伊勢(いせ)の地へ戻り、その地で亡くなったと伝えられていますが、この後日談も、伊勢という土地に古くから根を張っていた勢力が、後に天孫系の勢力と結びついていく歴史を反映しているのではないか、という見方もあります。
三種の神器――王権の正統性を示す「物証」
ニニギに授けられた三種の神器、八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉は、単なる魔法の道具ではなく、支配者としての正統性を示す政治的な象徴だったと考えられています。実際に弥生時代から古墳時代にかけての遺跡からは、銅鏡(どうきょう)・銅剣(どうけん)・勾玉(まがたま)がセットで出土する例が各地で見つかっており、これらが権威の象徴として実際に用いられていたことがうかがえます。出雲の荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)や加茂岩倉遗跡(かもいわくらいせき)から大量の銅剣・銅鐸(どうたく)が出土したこともよく知られていますが、これらは国譲り神話の回でも触れたように、青銅器を用いた祭祀・権威の表現が、実際に列島各地の有力者たちの間で行われていたことを示す物的証拠と言えます。三種の神器の物語は、こうした「宝物を受け継ぐことこそが正統な支配者の証」という、当時の人々の価値観そのものを反映しているのでしょう。
五伴緒(いつとものお)――随行した五柱は「役職」だった
ニニギに付き従った五伴緒、天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命という五柱の神々にも、興味深い共通点があります。彼らはいずれも、天岩屋戸神話でアマテラスを岩屋から誘い出すために活躍した神々と重なり、それぞれが後の時代の特定の氏族(うじぞく)の祖先神として位置づけられている点です。たとえば天児屋命は祭祀司る中臣氏(なかとみうじ、のちの藤原氏)の祖、天宇受売命は芸能や神楽を担った猿女君(さるめのきみ)の祖、伊斯許理度売命は鏡作り、玉祖命は勾玉作りを担った氏族の祖とされています。
つまりこの場面は、単に「神々が付き添った」という話ではなく、朝廷の祭祀を支えたさまざまな職掌集団(祭祀・芸能・鏡作り・玉作りといった専門職の一族)が、それぞれ「自分たちの祖先は、天孫降臨のときからニニギに仕えていたのだ」という由緒を主張するための系譜物語でもあったと考えられています。神話の中に、当時の朝廷を支えた実在の氏族たちの職業的な起源が織り込まれているわけです。こうした視点で読むと、天孫降臨は単なる一柱の神の物語ではなく、複数の氏族の由緒が集まってできた、いわば「創業メンバーの記念誌」のような性格も帯びていることが分かります。
石長比売を返した話――「寿命」の起源説話でありながら
木花之佐久夜毘売だけを娶り、姉の石長比売を送り返したことで人間の寿命が限られたものになった、というエピソードは、いわゆる「バナナ型神話」と呼ばれる、東南アジアから南太平洋にかけて広く分布する死の起源説話の一種と考えられています。永遠の命を象徴する石(石長比売)と、はかなくも美しい花(木花之佐久夜毘売)、どちらを選ぶかによって人間の運命が決まる、という構造の神話は、日本だけでなく世界各地に類話が存在します。稲作文化とともに南方から伝わった物語の型が、日本列島の中で天孫降臨神話に組み込まれていった可能性が指摘されており、この一話だけを見ても、古事記が決して一つの起源だけから生まれた物語ではなく、さまざまな文化の記憶が幾重にも重なり合ってできていることが分かります。
おわりに――次回予告
こうして邇邇芸命は高千穂の地に宮を構え、木花之佐久夜毘売との間に、のちの神武天皇(じんむてんのう)へとつながる系譜の始まりを刻みました。天から地上へと舞台を移した神々の物語は、次第に「神話」から「歴史」へと橋渡しされていきます。
次回は、ニニギの子どもたち――海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の兄弟が繰り広げる、釣り針をめぐる争いと、海の国への旅の物語をお届けする予定です。これもまた、単なる兄弟げんかの物語として片付けるにはもったいない、興味深い読み解きが待っています。どうぞお楽しみに。
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この記事のより詳しい考証パートは、note連載「古事記、深掘り。」でもお楽しみいただけます。
▶ この回のnote本編はこちら:天孫降臨(note)
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