炎の夜に皇位を賭けて――墨江中王の反乱と、水歯別命が下した非情の裁き

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「炎の夜に皇位を賭けて」のイメージ

前回の記事では、仁徳天皇(にんとくてんのう)の異母弟・速総別王(はやぶさわけのみこ)と、異母妹・女鳥王(めどりのみこ)の悲恋を取り上げました。天皇の求婚を拒み、遣わされた使者そのものと結ばれてしまった女鳥王。その代償はあまりに大きく、二人は追討軍に追われて倉椅山(くらはしやま)を越え、最後は宇陀(うだ)の地で命を落としました。古事記はこの二人を単純な「裏切り者」としてではなく、身分違いの恋に殉じた哀しい男女として描き出しています。

しかし物語はここで終わりません。仁徳天皇という一人の巨大な帝の治世が終わりに近づくにつれ、古事記の筆はより血なまぐさい主題へと移っていきます。それは「誰が次の王になるのか」という、王権にとって最も根源的で、最も危険な問いです。速総別王と女鳥王の悲劇が、あくまで個人と個人の恋と裏切りをめぐる物語であったのに対し、今回の物語はその規模がまったく違います。舞台となるのは、王位そのものを賭けた、兄弟同士の血なまぐさい争いです。今回はその答えを巡って燃え上がった、兄弟間の裏切りと粛清の物語――墨江中王(すみのえのなかつみこ)の反乱と、それを鎮めた水歯別命(みずはわけのみこと)の決断を見ていきます。

物語

仁徳天皇が崩御すると、皇位は太子である伊邪本和気命(いざほわけのみこと)が継ぐはずでした。伊邪本和気命は父の死を悼み、難波(なにわ)の宮で喪に服していました。ところが、同じ母を持つ弟の一人、墨江中王(すみのえのなかつみこ)は、この喪中の隙を狙って恐るべき企てを抱きます。兄を亡き者にして、自ら皇位を奪おうというのです。

墨江中王は夜陰に乗じて、伊邪本和気命が眠る喪の宮に火を放ちました。もし発覚しなければ、皇位継承者はそのまま炎の中に消えていたはずです。しかしそこに、忠臣・阿知直(あちのあたい)がいました。異変を察知した阿知直は伊邪本和気命を叩き起こし、馬に乗せて共に宮を脱出させます。二人は闇の中を駆け抜け、倭(やまと)の石上(いそのかみ)の地を目指しました。九死に一生を得た伊邪本和気命は、ここで体勢を立て直すことになります。

古事記には、この逃避行の緊迫感が生々しく記されています。喪に服していたはずの宮が炎に包まれ、後継者が着の身着のまま馬に飛び乗って闇を駆ける――即位すら済んでいない太子にとって、これほど心細い夜はなかったことでしょう。石上に逃れた伊邪本和気命は、もう一人の弟である水歯別命(みずはわけのみこと)のもとに使者を送りました。「お前は墨江中王の側につくのか、それとも私の側につくのか」――この問いは、単なる確認ではなく、水歯別命自身の忠誠を試すものでした。水歯別命は迷わず「私はあなたの味方です」と答えます。しかし伊邪本和気命は、言葉だけでは信じませんでした。真に自分の側に立つというなら、その証として、反乱を起こした墨江中王を自らの手で討ち取ってこい、と命じたのです。

水歯別命は難波へと戻り、墨江中王を討つ機会をうかがいます。そこで目をつけたのが、墨江中王に仕える近習の一人、曾婆訶理(そばかり)でした。水歯別命は曾婆訶理に近づき、「お前が主君を討てば、大臣の位を与え、重く取り立てよう」と持ちかけます。目先の栄達に目がくらんだ曾婆訶理は、あろうことか自分の主君である墨江中王を厠(かわや)で襲い、討ち取ってしまいました。

こうして反乱の首謀者は死に、王位継承の危機は去りました。曾婆訶理は約束の褒賞を求めて、意気揚々と水歯別命のもとへ参上します。ところが水歯別命は、彼を丁重に迎え、酒宴を開いて大いにもてなしながらも、心の中では別のことを考えていました。「この者は確かに功をなした。しかし、己の主君を裏切って手にかけるような者を、このまま生かしておいてよいものか」。宴もたけなわというところで、水歯別命は約束していたはずの褒賞を与えるどころか、曾婆訶理その人を討ち取らせてしまいます。忠義を破った者は、たとえ自分に利をもたらした相手であっても、決して信用してはならない――そうした苛烈な政治判断が、ここには示されています。

興味深いのは、水歯別命が曾婆訶理を討つにあたって、決して力ずくで奪うような真似をしなかった点です。あくまで丁重にもてなし、酒を勧め、相手が油断しきったところを見計らって事を成しています。この場面には、単に裏切り者を憎んで殺したというより、忠義を破った者への処断を厳粛な儀礼のように執り行うという、当時の王権にとっての一種の作法のようなものが感じられます。功績を認めながらも、その功績を成した手段そのものを許さない――この矛盾をはらんだ判断こそが、水歯別命という人物の複雑さを物語っています。

こうして墨江中王の乱は完全に鎮圧され、伊邪本和気命は改めて即位し、後に履中天皇(りちゅうてんのう)と呼ばれることになります。そして兄のために非情な裁きを下した水歯別命もまた、やがて皇位を継ぎ、反正天皇(はんぜいてんのう)となっていきます。仁徳天皇という偉大な帝の死は、息子たちの間に燃え上がる野心と忠義の炎を引き起こし、その炎をくぐり抜けた者だけが、次の王座にたどり着いたのです。古事記はこの経緯を淡々と語りながらも、行間には、王位というものがいかに脆く、いかに血で贖われるものであったかという緊張感を漂わせています。

実際には

この墨江中王の乱の物語を、歴史的な事件の忠実な記録として読むべきかどうかについては、研究者の間でも見方が大きく分かれています。単純な「史実か、創作か」という二択ではなく、いくつもの読み方が並び立っているのが現状です。

学説A 王権の正当性を語るための物語という見方

まず注目すべきは、この物語が誰の視点から語られているかという点です。反乱を起こした墨江中王は徹底して悪役として描かれ、兄のために手を汚した水歯別命はむしろ英雄的に描かれています。こうした構成そのものが、後の大和朝廷にとって都合のよい語りではないか、という指摘は古くからあります。記紀の記述を史料として厳密に扱うことに慎重な姿勢を貫いてきた文献批判的な立場は、古事記や日本書紀に記された天皇系譜や事件の多くについて、史実の記録というより、後世の朝廷が自らの正統性を語るために整えた物語としての性格が強いことが論じられてきました。この立場に立てば、墨江中王の乱もまた、実際に起きた宮廷内の権力闘争がそのまま記録されたというより、「正しい血筋が、裏切り者を退けて王座に就いた」という理念を伝えるために構成された説話である可能性が浮かび上がってきます。

学説B 河内の地に実在した権力交代の記憶という見方

一方で、この物語の背景に、何らかの史実的な核があったと考える立場もあります。仁徳天皇から反正天皇にかけての時代は、奈良盆地の大和ではなく、難波や河内(かわち)一帯に大王の拠点が置かれていた時期にあたります。この時期の大王家について、それ以前とは異なる新しい系統――いわゆる「河内王朝」的な性格を持つ勢力が台頭した可能性を論じる研究があります。こうした見方に立つと、兄弟間の激しい後継争いという物語の骨格は、実際に河内周辺で起きた勢力交代や、複数の有力氏族が王位継承に介入した歴史的な緊張関係を反映している可能性が出てきます。実際、この時代に比定される大阪府南部の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群では、巨大な前方後円墳が集中して築造されており、考古学の研究は、これらの古墳の規模や築造順序から、当時の大王権力の実態やその変遷をうかがう手がかりを与えています。物語に描かれた血なまぐさい継承争いは、こうした巨大古墳の背後にあった現実の権力構造と、まったく無関係ではないのかもしれません。もっとも、古墳の規模や築造順序から特定の個人の事績や、ましてや兄弟間の争いの有無までを直接読み取ることは容易ではなく、考古学的な傍証はあくまで間接的なものにとどまる、という点には注意が必要です。

学説C 語り物としての教訓性を重視する見方

もう一つ見逃せないのが、この物語が持つ「語り物」としての側面です。曾婆訶理が主君を裏切って手柄を立てながら、その裏切りゆえに粛清されるという結末は、単なる史実の記録というより、口承文芸に典型的な教訓譚の構造をしています。貴い血筋の者が試練や流浪を経て正統な地位を回復するという「貴種流離譚」の型に、古代の説話がしばしば従っていることは、日本の古代文学を読み解く際によく指摘されます。伊邪本和気命が命からがら逃れ、弟の働きによって王座を回復するという展開は、まさにこの型に重なります。また、古事記を文字化される以前の語り部たちの声を伝えるテキストとして読み解こうとする立場からは、曾婆訶理の顛末は「褒賞を約束された裏切り者が、最後には裏切られる」という、語りとして耳に残りやすい教訓的なエピソードとして発達した可能性も考えられます。忠義を破った者の末路を印象的に描くことで、聞き手に「主君への忠誠」という価値観を強く刻みつける効果を持っていたのでしょう。曾婆訶理の物語が、史実としての細部――いつ、どこで、どのような手段で主君を討ったのか――まで正確に伝えているかどうかは分かりません。しかし、少なくとも「裏切りによって得たものは、いずれ裏切った者自身に返ってくる」という倫理観そのものは、当時の人々にとって切実に共有されていた価値観だったのだろうと想像されます。

世界の神話に見る、よく似た構図

兄弟や親族が王位を巡って争い、忠実な家臣の働きによって正統な後継者が地位を取り戻すという物語の型は、日本だけのものではありません。比較神話学の分野では、世界各地の神話を比較する研究から、王権神話には共通する構造がしばしば見出されるとされています。たとえば旧約聖書には、ダビデ王の息子アブサロムが父に反旗を翻し、一時は王都を追われたダビデが、忠実な家臣たちの助けによって体勢を立て直し、最終的に反乱を鎮圧する物語が記されています。息子・弟による反乱、王の一時的な逃亡、そして忠臣の働きによる王権の回復という骨格は、墨江中王の乱の展開と驚くほどよく似ています。もちろん、成立した時代も文化的背景もまったく異なる二つの物語を安易に同一視することはできませんが、王位継承という緊張をはらむ場面において、人間社会が似たような形の物語を生み出しやすいことを示す興味深い一例といえるでしょう。さらに視野を広げれば、ギリシア神話に登場するオイディプスの二人の息子、エテオクレスとポリュネイケスが、父の退位後にテバイの王座を巡って争い、ついには互いを刺し違えて共倒れになる悲劇も、兄弟が王権を巡って血を流し合うという同じ主題の別の展開として読むことができます。墨江中王の乱では一方が生き延び、もう一方が滅びるという決着がつきましたが、エテオクレスとポリュネイケスの物語では両者が共に滅びてしまう点で対照的です。同じ主題であっても、それぞれの文化がどのような結末を選び取るかには、その社会が何を理想の王権像として描こうとしたかという違いが表れているのかもしれません。

このように、墨江中王の乱の物語ひとつをとっても、そこには王権の正当化という政治的な意図、河内地域における実際の権力交代の記憶、そして口承文芸としての教訓性という、複数の層が重なり合っています。どの見方が唯一の「正解」であるかを決めることは難しく、答えは一つに決まらないというのが、今のところの誠実な結論なのだと思います。

おわりに――次回予告

こうして反乱を退けた伊邪本和気命は履中天皇として、そして兄のために非情な裁きを下した水歯別命は後に反正天皇として、それぞれ皇位に就いていきます。しかし古事記の物語は、ここでも安らかには終わりません。反正天皇の後を継いだ弟・雄朝津間稚子宿禰王(おあさづまわくごのすくねのみこ)は、当初みずからの病を理由に即位をかたくなに固辞しますが、やがて周囲の説得を受けて允恭天皇(いんぎょうてんのう)として立つことになります。そしてその治世のもとで、皇太子・木梨之軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)と、同じ母から生まれた妹・軽大郎女(かるのおおいらつめ)との、決して許されるはずのない恋が新たな悲劇を生んでいくのです。次回は、この禁断の恋の物語を見ていきたいと思います。


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参考文献

  • 三浦佑之『口語訳 古事記――人代篇』(文春文庫、文藝春秋、2006年12月)
  • 西宮一民 校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 古事記』(新潮社、2014年10月)

※学説の紹介は、各分野の研究の見方を筆者がまとめたものです。正確を期していますが、誤りに気づかれた場合はお問い合わせページからお知らせください。

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