海を渡ってきた「ほとけ」――仏教公伝、大和を揺るがした選択

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前回は、応神天皇五世の孫という遠い血筋から迎えられた継体天皇(けいたいてんのう)が、即位してもすぐには都の中心に入れず、何年もかけて各地の勢力と関係を築きながら、ようやく大和(やまと)の王として立っていった様子を見てきました。新しい王の立場は、最初から盤石だったわけではなかったのです。今回はその継体天皇の後を継いだ時代に起きた、古代日本を大きく揺るがす出来事に触れていきます。海の向こうから、これまで大和の人々がまったく知らなかった新しい信仰がもたらされる、仏教伝来(ぶっきょうでんらい)をめぐる物語です。

物語

継体天皇の血筋を継いだ欽明天皇(きんめいてんのう)が大和を治めていたころ、海の向こうの朝鮮半島には、百済(くだら)という国がありました。百済の王・聖明王(せいめいおう)は、大和の国と古くから友好関係を結んでおり、たびたび使者を送って贈り物をしていました。

ある年、百済からの使者が都に持ち込んだのは、これまでにない特別な品でした。金色に輝く仏像と、経典、そして仏具の数々です。使者は欽明天皇に向けて、聖明王からの言葉を伝えました。この教えは計り知れない功徳をもたらし、この上なく優れた知恵への道であるという内容でした。見たことのない金色の像を前にして、朝廷の人々は驚きとともに、戸惑いを隠せませんでした。

欽明天皇は、この新しい神ともいえる存在をどう扱うべきか、群臣(ぐんしん)たちに意見を求めました。ここで大きく意見が分かれます。蘇我稲目(そがのいなめ)は、海の向こうの国々はみなこの教えを信奉している、大和だけが背を向けるわけにはいかないだろうと述べ、受け入れに賛成しました。一方、物部尾輿(もののべのおこし)は、我が国には古くから祀ってきた国つ神・天つ神がある、そこに他国の神を持ち込めば、これまでの神々の怒りを招くのではないかと強く反対しました。

欽明天皇は結論を急がず、ひとまず蘇我稲目にその仏像を授け、試しに礎(いしずえ)として祀らせることにしました。稲目は自らの邸宅を寺のように造り替え、向原(むくはら)の家に仏像を安置し、礼拝を始めたといわれています。ところが、しばらくして疫病が国に広まり、多くの人が命を落としました。これを見た物部尾輿らは、まさしく他国の神を敬ったせいで、我が国の神々が怒ったのだと訴えます。欽明天皇はその訴えを受け入れ、仏像を難波(なにわ)の堀江に流し捨て、寺としていた建物にも火を放つよう命じたと伝えられています。

これで事が収まったわけではありませんでした。仏を敬うべきか、これまでの神々を守るべきか、という対立の火種は、蘇我氏と物部氏という二つの大きな氏族の間に、くすぶり続けることになります。海を越えてもたらされた一体の仏像は、やがて大和の人々に、自分たちの信じるものとは何かを、あらためて問いかける存在になっていったのです。

それでも、仏像が流し捨てられ、建物が焼かれたからといって、百済との関係や、海の向こうの教えへの関心が完全に絶たれたわけではありませんでした。その後も百済からは経典や僧侶、仏具を作る技術を持つ人々が折々に渡来し、仏の教えそのものは形を変えながら、朝廷の周辺に少しずつ根を下ろしていきます。蘇我稲目の子である蘇我馬子(そがのうまこ)の世代になると、仏教を奉じる姿勢はいよいよ鮮明になり、物部尾輿の子である物部守屋(もののべのもりや)との間の緊張も、避けがたいものになっていきました。欽明天皇の宮廷で起きた、この一度きりの出来事に見える対立は、実は何十年も続く長い確執の、最初の一幕にすぎなかったのです。

実際には

この仏教伝来の物語は、実のところ古事記そのものには記されていません。欽明天皇の時代のこの出来事は、主に『日本書紀(にほんしょき)』に見える記述で、古事記は欽明天皇の系譜を簡潔に記すのみで、仏教伝来の経緯には触れていません。それでも、この出来事は大和の信仰のあり方を大きく変えた転換点として、古代史を考える上で欠かせない物語です。歴史学・考古学・比較神話学の視点から見ると、この一見シンプルな対立の物語にも、いくつもの読み方が重なっていることが分かります。

学説A 伝来の年をめぐる論争――五五二年か、五三八年か

まず議論の的になるのは、仏教が公に伝わった年そのものです。『日本書紀』は欽明天皇十三年、西暦でいえば五五二年のことと記していますが、別の史料である『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』や『元興寺(がんごうじ)縁起』は、それより十四年早い五三八年のことだとしています。この違いは単なる記録のずれではなく、『日本書紀』の編者が仏教伝来の年を、仏教でいう「末法(まっぽう)」の時代に入る節目の年、つまり壬申(じんしん)の年に合わせて書き換えた可能性があるという見方があります。末法の始まりとされる年に教えがもたらされたとする方が、物語として意味を持たせやすいという考え方です。一方で五三八年説を支持する研究者は、百済側の記録や干支の記述との整合性から、こちらの方が実際の年に近いと見ています。どちらの年が正しいかは今も決着しておらず、この一事だけでも、仏教伝来の物語がどこまで史実で、どこから後の時代の意味づけなのかを考えさせられます。

学説B 宗教対立か、権力闘争か

蘇我氏と物部氏の対立を、仏を敬うか敬わないかという純粋な信仰の問題として読むか、それとも二つの氏族の間の政治的な勢力争いとして読むかでも、見方は大きく分かれます。政治的な勢力争いとして読む立場からは、蘇我氏が渡来系の技術や文化を背景に朝廷での地位を高めていった氏族であり、物部氏はそれに対抗する既存の軍事・祭祀氏族であったことに注目し、仏教の受け入れをめぐる争いは、実際には朝廷内の主導権をどちらが握るかという、より現実的な権力闘争の表れだったという見方があります。仏を拝むかどうかという宗教上の立場は、その闘争の表向きの旗印として機能した側面があるという見方です。もちろん、当時の人々が仏像という見慣れない存在に本当に畏怖を感じたであろうことも想像に難くなく、信仰上の戸惑いと政治的な思惑は、分けて考えるよりも、重なり合ったものとして捉える方が実情に近いのかもしれません。

学説C 「まれびと」としての仏――民俗学の視点から

民俗学の立場からは、日本の神々の信仰には、よそからやってくる存在を迎え入れるという古い型があるという見方があります。「まれびと」と呼ばれる、海の向こうや異界から訪れる来訪神を迎え、もてなすことで豊かさや力を得るという信仰のあり方です。この視点に立つと、海を越えてもたらされた仏像もまた、大和の人々にとっては完全に異質な侵入者ではなく、古くからある「外からやってくる尊い存在を迎える」という型に沿って受け止められた可能性が見えてきます。実際、『日本書紀』が仏を「蕃神(あたしくにのかみ)」、つまり異国の神と表現していることも、仏を自分たちの神々の体系の外側にある、しかし完全に無関係ではない存在として捉えていたことをうかがわせます。比較神話学が各地の神話を比較してきたように、新しい神や教えが海や境界の向こうからもたらされ、既存の秩序との間に緊張を生むという型は、日本に限った特殊な現象ではなく、世界各地の神話に広く見られる構造でもあります。

世界の神話との比較――異国の神を迎えた王の物語

外からやってきた神を迎え入れるべきかどうかで共同体が分裂するという筋立ては、ギリシア神話にも見ることができます。酒と陶酔の神ディオニュソスが、テーバイの王ペンテウスの治める土地にやってきたとき、王はこの神を異国からの不穏な存在として拒み、その信仰を禁じようとします。しかし、ディオニュソスを拒んだ王は最後には悲劇的な結末を迎え、新しい神の力を認めないことの危うさが語られます。欽明天皇の宮廷で、蘇我稲目が仏を受け入れようとし、物部尾輿がこれを拒んだ構図は、新しい神格をめぐって共同体が割れ、どちらの道を選ぶかが問われるという、人類に広く共有された物語の型の、日本における一つの現れと見ることもできるでしょう。もちろんギリシアの物語は酒の神という既に異国で確立した神格の話であり、仏教という体系化された教えの伝来とは性質が異なりますが、「見知らぬ力をどう扱うか」という共同体の根源的な問いという点では、重なる部分があるように思われます。

考古学から見えること

文献だけでなく、考古学の成果もこの時代を考えるうえで重要な手がかりになります。考古学の立場からは、六世紀後半から七世紀にかけての古墳や寺院遺跡の変化に注目し、蘇我氏に関わる飛鳥(あすか)地域の寺院跡や、仏教に関連する遺物の出土状況から、仏教の受容が一時的な出来事ではなく、数十年にわたる段階的な広がりであったことを示しています。『日本書紀』が描くような、ある年にはっきりと伝来し、すぐに受け入れと排斥の対立が起きたという筋立ては、物語としては分かりやすいものですが、実際の受容の過程はもっと緩やかで、複数の段階を経ていたと考えられています。古事記の読み解きでしばしば指摘されるように、記紀の物語は出来事をいくつかの印象的な場面に凝縮して語る性質を持っており、仏教伝来の記述もその例外ではないのかもしれません。古事記そのものがこの出来事を語らず、系譜だけを淡々と記していることも、編纂の時点ですでに、どの出来事を物語として残し、どの出来事を省くかという選択が働いていたことを示しているのでしょう。

さらに付け加えるなら、旧約聖書に描かれる古代イスラエルの物語にも、周辺の民族が信じる異国の神々(バアルなど)を受け入れるか、唯一の神への信仰を守るかをめぐって、王や民衆が繰り返し揺れ動く場面が描かれています。異国の神を拝んだ王が糾弾され、信仰の純粋さを守ろうとする者と、現実的な外交や交流を重んじる者との間で揺れるという構図は、欽明天皇の宮廷で起きた出来事と、驚くほど似た骨格を持っています。異なる文化、異なる時代のそれぞれの共同体が、見知らぬ神や教えに出会ったとき、似たような緊張をくぐり抜けてきたのだと考えると、仏教伝来の物語は、大和という一つの国だけの特殊な事件ではなく、人類がくり返し経験してきた出来事の、日本列島における一つの実例として見えてきます。

このように見ていくと、仏教伝来という一つの出来事の背後には、年代の問題、政治的な権力闘争という側面、古来の信仰の型との接続、そして世界の他の神話や聖典にも通じる普遍的な構造が、複雑に絡み合っていることが分かります。どの学説も、それぞれに根拠を持ちながら、この出来事の一面を照らし出しているにすぎません。答えは一つに決まらない、というのが、今のところの実際のところなのだろうと思います。

一つだけ確かに言えるのは、この出来事をきっかけに、大和の人々が「自分たちの神々とは何か」をあらためて意識するようになったということです。それまで当たり前のように祀られてきた国つ神・天つ神の存在は、外から来た教えと比べられることで、初めてその輪郭をはっきりさせたのかもしれません。異なるものとの出会いが、自分自身を見つめ直すきっかけになるというのは、神話の世界に限らず、私たちの日常にも通じる話のように思われます。

おわりに――次回予告

一度は堀江に流された仏像でしたが、仏教をめぐる対立の火種は、この後も蘇我氏と物部氏の間に残り続けました。次回は、この対立がついに武力による決着を迎える、蘇我氏と物部氏の最終的な衝突と、その先に姿を現す聖徳太子(しょうとくたいし)の時代へとつながっていく物語をお届けしたいと思います。


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この記事のより詳しい考証パートは、note連載「古事記、深掘り。」でもお楽しみいただけます。
▶ この回のnote本編はこちら:古事記、深掘り。(note)

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