高校の日本史や道徳の教科書で、一度は「民のかまど」の話を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。「国を見渡すと民家から煙が立っていない、だから三年間税を取るのをやめた」という、あの美談です。

結論からいえば、この話はただの美談では終わりません。舞台裏には、五世紀の巨大な治水事業の記憶、そして「質素な帝がなぜ世界最大級の古墳に眠るのか」という考古学的な矛盾が潜んでいます。古事記シリーズ最新回「民のかまどに煙は立つか――仁徳天皇、質素倹約の帝の物語」では、この有名な逸話を、物語パートと考証パートの両面からじっくり掘り下げました。
物語パート――三年間、税を取らなかった帝
即位したばかりの仁徳天皇(にんとくてんのう)が高台から国を見渡すと、どの家からも炊事の煙が立っていません。「国はみな貧しいのだ」と悟った天皇は、三年間すべての課役(税や労役)を免除するという大胆な決断を下します。
その間、天皇自身は宮殿の屋根が壊れても修理せず、雨漏りを器で受けながら暮らしたと伝えられます。三年後、再び国を見渡すと、あちこちから煙が立ち上っていました。「民が豊かになったのだから、私も豊かになったのだ」――この一言に、物語のすべてが凝縮されています。
なぜ「仁徳」という名がついたのか
この天皇に「仁徳」という名が贈られたのは、奈良時代になってからのことです。「仁」も「徳」も、儒教(じゅきょう)における理想の統治者を表す言葉であり、この諡号自体が「民のかまど」の逸話を踏まえて選ばれたと考えられています。
考証パート――美談の奥にある三つの謎
この逸話には、三つの角度から考える手がかりがあります。
史実か、理想化された創作か
「三年間の免税」という具体的な決断の裏には、実際に難波(なにわ)で進められた治水事業の記憶があったのではないか――研究者の見方は分かれています。文献批判の立場に連なる研究は儒教的な創作説を取り、一方で茨田堤(まんだのつつみ)などの実在の土木事業と結びつける説もあります。
質素な帝と、世界最大級の古墳
仁徳天皇の陵とされる大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、大阪府堺市)は、体積では世界最大級ともいわれる巨大な墳墓です。屋根の修理すら惜しんだ質素な帝が、なぜこれほどの墓に眠っているのか――この一見矛盾する組み合わせについては、このあと二つの見方を整理します。
中国の聖王伝説との共通点
「質素倹約の善政で民を豊かにする王」というモチーフは、実は中国古代の聖王・尭(ぎょう)と舜(しゅん)の伝説にも通じるものがあります。日本の古代王権が、自らの正統性をどのような言葉で語ろうとしたのか、その手がかりがここにあります。
「三年間の免税」と同時に進んだ大工事
「民のかまど」は、税を取らない慈悲深い帝の話として語られます。ところが『古事記』『日本書紀』を読み進めると、仁徳天皇(にんとくてんのう)の御世には、これとは対照的な大規模な土木事業の記事が並んでいます。
『古事記』には、秦人(はたびと)を使って茨田堤(まんだのつつみ)と茨田の屯倉(みやけ)を造り、丸邇池(わにのいけ)や依網池(よさみのいけ)を築き、さらに難波の堀江を掘って海に通し、小椅江(おばしのえ)を掘り、墨江(すみのえ)の港を定めた、という趣旨の記事があります。『日本書紀』にも、茨田堤の築造や難波の堀江の開削が記されています。
当時の大阪平野は、淀川や大和川の水が集まる低湿地でした。川の氾濫を防ぎ、水を海へ流し、同時に田へ水を引く。堤や池、水路をつくる仕事は、人々の暮らしを守る仕事でした。
免税と大工事は、矛盾するのか
ここに一つの疑問が生まれます。三年間、課役(かやく=税や労役)をすべて止めたはずの天皇が、なぜ大工事を進められたのでしょうか。
この点には、いくつかの見方があります。一つは、「民のかまど」が儒教的な理想の君主像を示すために整えられた話で、史実の出来事とは別の層のものだという見方です。もう一つは、免税の期間が過ぎたあとに、民が豊かになったからこそ大規模な工事を動員できた、と物語として読む見方です。『日本書紀』が、課役の再開を願い出る諸国の声を天皇が長く退け、ようやく宮室の造営を命じる流れを描いている点を重視する人もいます。
どちらか一つに決めきれないのが実情です。ただ、「慈悲の話」と「治水の記憶」が、ひとつの御世にまとめて語られていること自体が、この逸話を読むうえで大きな手がかりになります。
『日本書紀』だけが伝える、茨田堤と「人柱」の伝承
茨田堤の築造について、『日本書紀』は『古事記』にはない、重い伝承を記しています。仁徳天皇の十一年、天皇は茨田堤を築かせますが、二か所だけ、築いても築いても決壊してしまう場所がありました。そのとき天皇の夢に神が現れ、武蔵の人・強頸(こわくび)と河内の人・茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を河の神に捧げれば、堤は必ず完成すると告げた、と語られます。
強頸は泣き悲しみながら水に身を投じ、その場所の堤は完成しました。もう一人の衫子は、ひょうたんを水に投げ入れて、「本当に神が私を求めるなら、このひょうたんを沈めてみよ。沈められないなら偽りの神だ」と言い放ちます。ひょうたんは沈まないまま波の上を流れていき、衫子は命を落とさず、残る一か所の堤も完成した、という筋です。
この話が史実の人身御供を伝えているのかどうかは、確かなことは分かっていません。難工事だった築堤の苦労が、神への犠牲という形で語られたとする見方や、衫子の機転を民間の知恵話として読む見方があります。いずれにしても、民の課役を三年間免じた「聖帝」の物語と、神に人を捧げるほどの難工事の物語が、同じ御世に並んで語られていることは見逃せません。慈悲深い帝の姿は、こうした現実の厳しさと隣り合わせで描かれているのです。
巨大な古墳に眠る「質素な帝」
大阪府堺市の大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)は、墳丘の長さが約480メートルともいわれる国内最大級の前方後円墳で、百舌鳥・古市古墳群の一つとして世界遺産にも登録されています。宮内庁は仁徳天皇の陵として管理していますが、被葬者を仁徳天皇とすることには、研究者のあいだでも慎重な意見があります。
もしこの古墳が仁徳天皇の墓だとすれば、屋根の修理も惜しんだ帝と、これほど巨大な墓との落差はどう考えればよいのでしょうか。「質素な王」という語りは後世に整えられたもので、実際の王権は強大だったという見方があります。一方で、治水や港の整備を成し遂げた王の力を、古墳という形で示したのだという読み方もあります。
美談の裏側に、五世紀の王権の実像が透けて見える。そう考えると、「民のかまど」は、教訓話としてだけでなく、古代の国づくりの記憶を読み解く入口としても味わえるのです。
原典ではどう書かれているか
『古事記』では、この話は下巻の冒頭、仁徳天皇(大雀命)の段に出てきます。高い山に登って四方の国を見渡した天皇は、国中に煙が立っていないことから民が貧しいのだと考え、今から三年のあいだ、人民の課役をすべて免除するよう命じます。その結果、宮殿は破れて雨漏りがするようになっても、修理もせず、器で雨を受けながら漏れない場所に移って過ごした、と語られます。
三年が過ぎて再び国を見渡すと、国中に煙が満ちていました。民が富んだことを確かめた天皇は、課役を再開します。『古事記』はこのあと、民が栄えて課役に苦しまなくなったことから、その御世を「聖帝の世」と称えた、と結んでいます。
『日本書紀』の書き方との違い
『日本書紀』にも同じ話があり、こちらは年を追って記されています。即位4年の春に高殿に登った天皇は、人家から煙が立っていないのを見て、3月に今後3年間の課役をすべて止めるよう詔します。その間、宮の垣が崩れても作り直さず、屋根の茅が乱れても葺き替えず、衣が雨に濡れるほどだったと伝えられます。
7年の夏4月、再び高殿から見渡すと煙が盛んに立っていて、天皇は皇后に「朕は富んだ」と語ります。皇后が、宮の垣が崩れても直せないのにどうして富んだと言えるのかと問うと、天皇は、民が富めば自分が富んだことになる、と答えます。同じ年の9月には諸国が課役の再開を願い出ますが、天皇はなお許さず、10年の冬10月になってようやく課役を命じて宮室を造りました。民は促されなくても進んで集まり、間もなく完成したと記されています。同じ逸話でも、書物によって力点が違うことに注目すると、編纂者たちが仁徳天皇に何を託したかが見えてきます。
この逸話から読み取れること
「民が豊かになれば、天皇も豊かになる」という考え方は、為政者のあるべき姿を示す物語として長く語り継がれ、戦前の教科書にも取り上げられてきました。
一方で、これが史実の記録というより、後の時代に理想の天皇像として整えられた可能性も否定できません。物語としての美しさと、史実かどうかという問いを切り分けて考える。これも古事記を読む楽しさの一つだと思います。
▶ この回のnote本編はこちら:noteでさらに詳しい考証を読む
本ブログでは、古事記シリーズの物語と考証を、この記事だけで読み通せるようにまとめています。note連載ではさらに詳しい考証を扱っており、神々の時代から人の世の始まりまで、noteアカウント(fast_spirea1280)でお楽しみください。
参考文献
- 三浦佑之『口語訳 古事記――人代篇』(文春文庫、文藝春秋、2006年12月)
- 西宮一民 校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 古事記』(新潮社、2014年10月)
※学説の紹介は、各分野の研究の見方を筆者がまとめたものです。正確を期していますが、誤りに気づかれた場合はお問い合わせページからお知らせください。
コメントを残す