神か、仏か、その先に――蘇我氏と物部氏、最後の決戦と聖徳太子の夜明け

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前回の記事では、欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に百済(くだら)から仏像と経典が伝えられ、これを国家として受け入れるべきかどうかをめぐって、蘇我稲目(そがのいなめ)と物部尾輿(もののべのおこし)が激しく対立した経緯をたどりました。疫病の流行をきっかけに仏像は難波の堀江へ投げ捨てられ、せっかく建てられた寺も焼き払われてしまいましたが、それで両氏族の確執が終わったわけではありません。むしろあの出来事は、やがて国の行く末を決める大きな戦いへと発展していく、長い確執のほんの序章に過ぎませんでした。稲目と尾輿が世を去ったあとも、その対立は子の世代である馬子と守屋にそのまま引き継がれ、宮廷の内部では崇仏派と排仏派という二つの派閥が、水面下でにらみ合いを続けることになります。今回は、その対立がついに武力によって決着を迎える、蘇我氏と物部氏の最終的な衝突と、その先に姿を現す聖徳太子(しょうとくたいし)の時代への道のりを、物語と考証の両面からたどっていきます。

物語

欽明天皇が崩御したのち、皇位は欽明の子である敏達天皇(びだつてんのう)、続いて用明天皇(ようめいてんのう)へと移っていきます。用明天皇は蘇我氏の血を引く天皇で、仏教に心を寄せていたと伝えられていますが、即位してわずか二年ほどで病に倒れ、崩御してしまいます。

この用明天皇の崩御をきっかけに、長らく燻っていた対立が一気に表面化します。蘇我馬子(そがのうまこ)は蘇我稲目の子であり、父の代からの崇仏(すうぶつ)の立場を引き継いでいました。対する物部守屋(もののべのもりや)は物部尾輿の子で、こちらも父の代から続く排仏の立場に立っていました。そこへ、次の皇位をどちらの血筋から出すのかという継承問題が重なり、宗教上の対立と政治上の対立が切り離せない形で絡み合っていきます。

当時の朝廷では、蘇我氏が大臣(おおおみ)として、物部氏が大連(おおむらじ)として、それぞれ重要な地位を占めていました。両氏とも一族から后妃を出し、天皇家と深い婚姻関係を結んでいたため、どちらの血筋を引く皇子が次の皇位に就くかは、単なる個人の問題ではなく、氏族そのものの命運を左右する問題でもありました。用明天皇が病に倒れてからというもの、宮廷の内外では、どちらに付くべきかを見極めようとする諸豪族の動きが慌ただしくなっていったと伝えられています。

物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位に就けようとして動きます。穴穂部皇子は守屋と結んで、ある夜、炊屋姫の後宮に押し入ろうとしたとも伝えられ、こうした強引な振る舞いは、蘇我方の人々の警戒と反発をいっそう強めることになりました。これに対して蘇我馬子は、炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)らと結び、先手を打って穴穂部皇子を討ち果たしました。この時点で両陣営の対立は、もはや話し合いや駆け引きでは収まらない段階に達していたといえます。朝廷に仕える諸豪族たちも、もはや中立を保つことは難しく、どちらか一方に与する決断を迫られていました。

西暦587年、干支でいう丁未(ひのとひつじ)の年、蘇我馬子は朝廷に連なる諸豪族を結集し、守屋の本拠地である河内国(かわちのくに)渋川(しぶかわ)の館へ大軍を差し向けました。これが後に「丁未の乱(ていびのらん)」と呼ばれる戦いです。馬子の陣には、泊瀬部皇子(はつせべのみこ、のちの崇峻天皇)や、竹田皇子、さらに蘇我氏に近い諸豪族が名を連ね、物部氏に対する包囲網はかつてないほど広いものになっていました。

一方の守屋も、物部氏が代々武を司ってきた一族だけに、容易には崩れませんでした。渋川の館の周囲には稲城(いなき、稲束を積んで作った防御陣)を築き、一族の兵や従者を率いて頑強に抵抗します。守屋自身は朴(えのき)の大木の上に登り、そこから矢を射かけて指揮を執ったと伝えられ、蘇我方の軍はこの迎撃にたびたび撃退され、三度にわたって攻めかかりながらも、なかなか陣を崩すことができなかったといわれています。

この戦いには、当時まだ十代であった厩戸皇子(うまやとのみこ)、のちの聖徳太子も加わっていたとされます。苦戦する蘇我方の陣中で、厩戸皇子は白膠木(ぬりで)の木を切って四天王の像を彫り、兜の中に納めて戦勝を祈願し、もし勝利できたなら四天王のために寺院を建立すると誓ったと伝えられます。戦況はやがて蘇我方に傾き、木に登って弓を構えていた守屋は、迹見赤檮(とみのいちい)の放った矢に射られて落命し、指揮官を失った物部の軍はたちまち総崩れとなりました。この誓いが、のちに大阪に建立される四天王寺の起源であると語り伝えられています。

守屋の死によって物部氏は政治的な力を大きく失い、以後、朝廷の実権は蘇我氏が握ることになります。乱の後、馬子はいったん泊瀬部皇子を崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位させますが、やがてこの天皇も、馬子の専横に不満を抱くようになっていきます。ある日、献上された猪を見て崇峻天皇が「この猪の頸を斬るように、憎いと思う者の頸を斬りたいものだ」と漏らしたという話が伝わり、これを自分への当てこすりと受け取った馬子は、ついに家臣に命じて崇峻天皇を暗殺してしまいます。天皇が臣下の手によって弑逆(しいぎゃく)されるという、朝廷の歴史上でも異例の事件でした。そして馬子は炊屋姫を推古天皇(すいこてんのう)として即位させ、厩戸皇子、すなわち聖徳太子を摂政として政治の中枢に据えました。仏教受容の是非をめぐる長い争いは、こうして蘇我氏の勝利と、聖徳太子という新しい時代の象徴を生み出すことによって、ひとつの大きな区切りを迎えたのです。

実際には

この丁未の乱の物語も、仏教公伝のときと同様、『古事記』にはほとんど記述がありません。用明天皇や崇峻天皇についての記事は簡潔なものにとどまり、守屋との戦いの詳細を伝えているのは主に『日本書紀』です。『古事記』が何を語り、何を語らなかったかという選択そのものが、研究者たちの関心を引いてきました。

学説A 宗教戦争としての丁未の乱

もっとも分かりやすい読み方は、これを文字通り「仏教をめぐる宗教戦争」として捉える立場です。崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が、信仰上の対立から武力衝突に至ったという理解であり、一般向けの歴史物語でも長らくこの構図が採用されてきました。聖徳太子が四天王に祈願して勝利を得たという逸話も、この読み方を後押しする材料として語り継がれています。実際、乱の後に建てられた四天王寺という寺の名そのものが、この戦いを「仏法のための戦い」として記憶させる役割を果たしてきたといえるでしょう。後の世の人々が丁未の乱を振り返るとき、まず思い浮かべるのはこの宗教戦争としての物語であり、その意味で学説Aは、もっとも広く共有されてきた理解の型だといえます。

学説B 氏族間の権力闘争としての丁未の乱

これに対して、宗教上の対立はあくまで表向きの旗印であり、実質は大王家の後継争いに乗じた蘇我氏と物部氏という二大氏族の権力闘争だったとする見方を示しています。渡来系の技術や知識と結びついていた蘇我氏が、軍事や祭祀を担ってきた旧来の名族・物部氏を排除し、朝廷の実権を一手に握るための戦いだったという理解です。仏教という新しい価値観は、その正当化のための旗印として利用された側面が大きいとする立場といえるでしょう。実際、守屋を滅ぼした後の馬子の振る舞いを見ると、崇峻天皇をも意のままに退け、ついには暗殺にまで及んでいます。これほど強引な政治手法を見れば、馬子にとって仏教の受容そのものよりも、朝廷における蘇我氏の独占的な地位の確立こそが最終的な目的だったのではないか、という見立てにも説得力があります。

学説C 王権の祭祀体制が転換する節目として

古事記の読み解きにつながるような視点では、丁未の乱は単なる一族の勝敗というより、王権が依拠する祭祀のあり方そのものが転換する節目として捉えられます。物部氏が担ってきた軍事的・呪術的な王権守護の機能が解体され、代わって仏教という新しい宗教体系が王権の守護者として台頭していく過程として、この戦いを位置づける読み方です。『古事記』が王権の正統性を語る書物であることを踏まえれば、この転換をどこまで、どのように書き込むかは、編纂者にとって決して軽い判断ではなかったはずです。民俗学で説かれてきた、外からやってくる存在への両義的なまなざしも、仏教という「よそ者の神」がやがて王権の内側に取り込まれていく過程を考えるうえで、ひとつの手がかりになるように思われます。

考古学から見えること

考古学的に見ても、仏教の受容は丁未の乱という一つの戦いで一気に完成したわけではなく、むしろ長い時間をかけて段階的に進んだ過程であったことが分かってきています。考古学の研究などが示すように、飛鳥(あすか)の地には乱の後、馬子によって法興寺(飛鳥寺)が建立され、瓦や礎石を用いた本格的な寺院建築が初めて日本列島に姿を現しますが、その技術者の多くは百済から渡来した工人たちでした。つまり丁未の乱の勝敗そのものよりも、その後に渡来系の技術と結びついた寺院建立のネットワークが、仏教を王権の内側に定着させていく上でより大きな役割を果たしたとも考えられるのです。『古事記』がこの戦いの詳細を記さなかったのは、こうした緩やかな定着の過程を、一度の武力衝突として描き切ることの難しさを、編纂者もどこかで感じていたからかもしれません。

世界の神話との比較

旧来の神々と新しい信仰とが衝突し、最終的に新しい信仰が王権と結びついて勝利するという構図は、日本だけに見られるものではありません。旧約聖書には、イスラエルの王たちが土着の神バアルを奉じる祭司たちと対立し、最終的にヤハウェ信仰を国家の中心に据えていく物語が繰り返し描かれています。新しい神を担う側が、旧来の祭祀勢力との政治的な対決を経てはじめて国家的な正統性を確立するという構図は、宗教と王権とが強く結びついた社会に、広く見られる型なのかもしれません。比較神話学が示すように、こうした「新旧の神の交代劇」は、特定の民族や宗教に限らず、国家形成期の社会にしばしば現れるモチーフとして理解することができます。

このように見てくると、丁未の乱という一つの出来事をめぐっても、純粋な信仰の戦いだったのか、氏族間の権力闘争だったのか、王権の祭祀体制そのものの転換点だったのか、あるいは渡来系の技術が緩やかに社会へ浸透していく過程の一断面だったのか、答えは一つに決まりません。信仰と政治と技術とは、古代社会においてはそもそも截然と分けられるものではなく、むしろ三つが絡み合いながら一つの出来事を形作っていたと考えるほうが、実情に近いのかもしれません。おそらくこれらの要素は分かちがたく絡み合っており、どの側面を重く見るかによって、同じ戦いの物語がまったく違う顔を見せてくるのでしょう。聖徳太子が後の世に「和を以て貴しとなす」という言葉を遺したことを思うと、この血なまぐさい内乱を経たからこそ、彼の政治には対立を乗り越えようとする強い志があったのではないか、とも想像したくなります。

おわりに――次回予告

丁未の乱を経て、蘇我馬子は推古天皇を即位させ、聖徳太子を摂政として新しい時代を切り開いていきます。血で血を洗う争いの果てに生まれたこの体制が、やがて冠位十二階(かんいじゅうにかい)や十七条憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)といった、氏族の力関係ではなく個人の才能や徳を重んじる新しい国づくりへとつながっていくことを思うと、丁未の乱はまさに、古代日本が大きく姿を変えていく、その入り口に位置する戦いだったのだと感じられます。次回は、この聖徳太子の時代に行われたとされる数々の政治改革と、「日出づる処の天子」という言葉に込められた、当時の倭(やまと)が大陸に向けて示した誇り高き姿勢について、物語と考証の両面からたどってみたいと思います。


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この記事のより詳しい考証パートは、note連載「古事記、深掘り。」でもお楽しみいただけます。
▶ この回のnote本編はこちら:古事記、深掘り。(note)

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