
前回の記事では、播磨(はりま)の隠れ里で牛飼いとして身を潜めていた意祁王(おけのみこ)・袁祁王(をけのみこ)の兄弟が、ひとつの宴の席での何気ない歌をきっかけに正体を見破られ、都へ迎えられて相次いで帝位についた経緯をご紹介しました。長い逃亡の末にようやく手にした帝位でしたが、二人の胸の内には、まだ果たされていない大きな思いが残っていました。父・市辺之忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ)を謀殺された恨みです。今回は、弟・袁祁王、のちの顕宗天皇(けんぞうてんのう)が、即位してからこの恨みにどう向き合ったのか、古事記が語る「知られざる仇討ち」の物語を見ていきます。
物語
市辺之忍歯別王は、兄弟の父であり、かつては皇位を継ぐ最有力の人物と目されていました。しかし雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)によって狩りの最中に不意打ちで殺されてしまいます。幼かった意祁王・袁祁王の兄弟は、この凶行から逃れるために播磨へ身を隠し、長い年月を名もない牛飼いとして過ごすことになったのでした。やがて清寧天皇(せいねいてんのう)の代に二人の素性が明らかになり、兄弟は都へ迎えられます。先に弟の袁祁王が顕宗天皇として即位し、兄の意祁王は後を継ぐことを約束して身を引きました。
顕宗天皇として即位した袁祁王がまず心を寄せたのは、父の遺骨のゆくえでした。市辺之忍歯別王の遺骸がどこに葬られたのか、誰も知る者がいなかったのです。そこで近江(おうみ)の国に住む一人の老女が名乗り出ます。かつて父が殺された場に居合わせ、遺骨を見分けることができるというのです。老女は天皇の前に進み、父の歯の特徴――上下の歯がしっかりと揃っている様子――を語り、ついに遺骨が見つかります。天皇はこの老女を深く労い、「置目(おきめ)」という名を与えて厚くもてなしました。宮のそばに住まわせ、会いたいときにはすぐにわかるよう鈴を綱に付けてその綱を引かせ、鈴の音が鳴るとすぐに老女を呼び入れたといいます。年老いた置目がやがて故郷の近江へ帰りたいと願い出たとき、天皇は別れを惜しみながら歌を贈り、彼女を送り出しました。この挿話は、父を思う気持ちと、その気持ちに応えてくれた一人の老女への感謝とが静かに重なる、古事記の中でも心に残る場面のひとつです。都から遠く離れた近江の地で、長い年月を一人で生きてきたであろう老女が、ある日突然天皇の前に呼び出され、手厚くもてなされたのちにまた元の暮らしへと帰っていく。その一連の流れそのものが、出会いと別れを惜しむ古代の人々の感情のありようを静かに伝えています。
父の遺骨が見つかったことで、顕宗天皇の中にはもう一つの思いが強くなっていきます。父を手にかけた雄略天皇――すでに世を去り、陵(みささぎ)に眠るその人への恨みです。天皇は深く雄略天皇を憎み、その霊に報復しようと考え、河内(かふち)の多治比(たじひ)にある高鷲(たかわし)の陵を壊してしまおうとします。これを聞いた兄の意祁王は、すぐに自分がその役目を引き受けたいと申し出ました。天皇はこれを喜び、意祁王を派遣して陵を壊させることにします。ところが意祁王は、陵へ向かってもすぐには手をつけず、まず自らその縁(へり)を少しだけ掘り、そこで引き返してきました。
戻ってきた意祁王に、顕宗天皇はなぜ陵を壊し尽くさなかったのかと問います。兄はこう答えました。父の仇を恨み、その陵を壊して報いたいという弟の思いはまったく正当なものである。しかし、かつて父を殺めたのと同じ人物とはいえ、雄略天皇はひとたび天下を治めた天皇であった。その陵をすべて壊してしまえば、のちの世の人々は必ず自分たちを非難するだろう。だが、恨みの筋を示さずに済ませてしまえば、それもまた後世に悔いを残す。だからこそ、陵の端を少しだけ掘り、恥を与える程度にとどめておくのがよいのだ、と。この言葉を聞いた顕宗天皇は深くうなずき、「これもまことに正しい」と述べて、それ以上の報復を求めることはありませんでした。
父を失った悲しみと恨みを長い歳月抱え続けた末に、ようやく手にした力をどう使うか――顕宗天皇と意祁王の兄弟は、怒りをそのままぶつけるのではなく、筋を通したうえで抑えるという道を選んだのです。
古事記はこの時代について、もう一つ別の報復の場面も伝えています。父・市辺之忍歯別王が殺された当時、その場に居合わせながら、父の遺体にかけるべき食事の供物を横から奪っていった猪飼(いかい)がいたというのです。顕宗天皇は即位後、この猪飼の行方を探し出させ、ついに探し当てると、厳しい処罰を下しました。本人だけでなく、その一族にまで及ぶ重い罰が与えられたと古事記は記しています。父を思う気持ちから出た行動とはいえ、ここでは陵墓の場合とは違い、天皇は一切の手加減をしていません。同じ「父の仇」という思いから発した二つの出来事でありながら、片方では兄の進言によって報復が和らげられ、もう片方では容赦のない処罰が下される。この対照のうちに、古事記が描こうとした顕宗天皇という人物の、感情と理性のあいだで揺れ動く姿が浮かび上がってきます。
実際には
この「陵を少しだけ掘る」という不思議な結末は、古くから多くの読み手の関心を引いてきました。全面的な破壊でも、完全な不問でもない、きわめて中途半端な報復がなぜ選ばれたのか。この問いへの答えは一つではなく、研究者によって見方が大きく異なります。
学説A ―― 王権を飾る物語としての仇討ち
一つの見方は、この挿話を史実の記録としてではなく、天皇の徳を示すために整えられた物語として読むものです。近年の研究には、古事記を文字で固定された歴史書としてではなく、口頭で伝えられてきた語り物としての性格を強く持つテキストとして読み解く立場があります。この視点に立てば、顕宗天皇が復讐心を抑え、兄の進言を受けて報復を最小限にとどめたという筋立ては、「私的な恨みよりも天下の評判を重んじる統治者」という理想像を語るために用意された物語の型と見ることができます。父殺しの恨みという、誰もが共感できる強い感情をいったん描いたうえで、それを天皇自らの意志で抑え込ませることにより、物語は暴力の正当化ではなく、暴力の抑制こそが王にふさわしいという教訓を伝える構成になっているのです。
学説B ―― 史実性への懐疑
もう一つの見方は、この時代の記述そのものの史実性に疑いの目を向けるものです。古くからの記紀研究には、古事記・日本書紀に記された初期の天皇の系譜や事績の多くについて、後の時代に皇室の由緒を整えるために作られた説話的要素が強いという見方があります。欠史八代と呼ばれる初期の天皇たちの記述が実質的な記録を欠いているのと同様に、顕宗・仁賢の時代の記述についても、父の仇討ちという筋立てそのものが、のちの時代の政治的・道徳的な関心――とりわけ「正統な血筋が受けた不正は、いつか正される」という観念――を反映して作られた可能性があるという見方です。この立場では、置目老媼の挿話や陵を掘る話は、実際にあった出来事の記録というよりも、皇統の正しさを語るために配置された説話単位として理解されます。
学説C ―― 陵墓の考古学からみた背景
三つめは、実際の古墳という物理的な存在から光を当てる見方です。考古学の研究では、雄略天皇の陵に比定される古墳として大阪府羽曳野市の古墳などがたびたび候補に挙げられ、文献上の陵名と実際の古墳群との対応関係が検討されてきました。五世紀後半という時期は、大王の墓が巨大な前方後円墳として築かれ、その後の時代には古墳の改葬や一部破壊、盗掘といった出来事も記録や伝承の中に散見される時期にあたります。この観点からすると、「陵の端を少しだけ掘る」という古事記の記述は、まったくの空想ではなく、当時実際にあった陵墓への侵害行為――たとえ小規模であれ――の記憶が、後世の語りの中で父の仇討ちという筋立てに結び付けられて伝えられた可能性も考えられます。古代政治史の研究も、五世紀後半の王権内部における激しい権力闘争の存在を指摘しており、市辺之忍歯別王の暗殺事件自体が、単なる物語上の悲劇ではなく、実際の皇位継承をめぐる争いを背景に持つ可能性を示唆しています。
父の仇を恨みながらも報復を抑えるという筋立ては、日本の神話だけに見られるものではありません。ギリシア神話には、父アガメムノーンを母クリュタイムネーストラーに殺されたオレステースが、長い苦悩の末に母への復讐を果たし、その後は復讐の女神たちに追われ苦しみながらも、最終的にはアテーナイの法廷によって赦されるという物語があります。旧約聖書にも「目には目を、歯には歯を」という有名な言葉があり、受けた害に対して報いる権利そのものは認めながら、その報いを受けた害と釣り合う範囲にとどめようとする考え方が古くから示されてきました。どちらの物語にも共通するのは、父の死への報復という誰もが認める感情を描きながら、その報復を無制限には許さず、何らかの形でそこに限度や筋道を設けようとする構成です。復讐そのものを否定するのではなく、復讐の「やり方」をめぐって物語が展開していく点に、時代や地域を越えた人間社会の共通した関心のありかがうかがえます。
学説D ―― 民俗学からみた置目老媼という存在
陵墓の話とは別に、置目老媼という人物そのものに注目する見方もあります。民俗学では、日本の古い伝承に登場する老人・老女を、単なる脇役としてではなく、共同体の外からやってきて特別な知識や力をもたらす存在――いわゆる「まれびと」的な性格を帯びた者として読み解く視点が示されてきました。この見方を置目老媼の挿話に当てはめてみると、彼女がただの目撃者としてではなく、父の遺骨という、通常なら誰にも知り得ない失われた知識を携えて都に現れ、天皇に特別にもてなされ、鈴の音で呼び出されるという特異な待遇を受けている点が意味を持ってきます。老女は血筋の上では天皇家と何の関わりもない人物でありながら、物語の中ではほとんど神聖に近い敬意を払われているのです。こうした人物の扱い方には、単なる史実の記録を超えた、古い信仰や語りの型が重なっている可能性があります。比較神話学の研究が示すように、年老いた人物が失われた真実や秩序を回復させる役割を担うという物語の型は、日本に限らず世界各地の神話や伝承に広く見られるものであり、置目老媼の挿話もそうした大きな枠組みの中に位置づけて考えることができます。
では、顕宗天皇が陵を壊し尽くさなかったのは、徳の高い統治者を描くための物語的な工夫だったのか、それとも皇統の正しさを語るために後から整えられた説話だったのか、あるいは実際にあった陵墓への侵害の記憶がかすかに反映されたものだったのか、さらには置目老媼という人物の造形に古い信仰の型が重ねられていたのか。これらの見方はどれも一つだけで物語のすべてを説明し尽くすものではなく、答えは一つに決まらないというのが、現在の研究状況を最も正直に言い表した言葉になるでしょう。
おわりに――次回予告
父への思いに一つの区切りをつけた顕宗天皇でしたが、その治世は長くは続きませんでした。やがて兄の意祁王が仁賢天皇(にんけんてんのう)として帝位を継ぎますが、その先で古事記は、皇統にとってさらに大きな転換点を語ることになります。次回は、仁賢天皇の後を襲った武烈天皇(ぶれつてんのう)の時代から、血筋の大きな断絶を越えて即位した継体天皇(けいたいてんのう)へと至る、古代王権のもっとも劇的な皇位継承の物語を取り上げます。
あわせて読みたい
この記事のより詳しい考証パートは、note連載「古事記、深掘り。」でもお楽しみいただけます。
▶ この回のnote本編はこちら:古事記、深掘り。(note)
コメントを残す