
前回の記事では、允恭天皇(いんぎょうてんのう)の崩御のあと、皇太子でありながら同母妹・軽大郎女(かるのおおいらつめ)との禁じられた恋に溺れた木梨之軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)が、群臣の支持を失って伊予へ流され、追ってきた妹とともに命を絶つまでを見てきました。父の死をきっかけに噴き出した兄弟のあいだの確執は、これで収まったわけではありません。木梨之軽太子を退けて即位した弟・穴穂御子(あなほのみこ)、のちの安康天皇(あんこうてんのう)もまた、わずか三年ほどでさらに凄惨な最期を迎えることになります。しかもその発端は、王位をめぐる大きな野心などではなく、ひとつの縁談をめぐる小さな行き違いでした。今回は、幼い甥の手による叔父殺し、そしてそこから芋づる式に連鎖していく血の粛清――「目弱王(まよわのみこ)の変」と、それに続く雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の即位までの顛末をたどります。古事記の下巻に入ってからというもの、皇位継承のたびに血が流れる話が続きますが、その中でも今回の一件は、加害者が幼い子どもであるという点で、とりわけ読む者の胸を締めつける挿話といえるでしょう。
物語
木梨之軽太子を退けて即位した安康天皇には、深く信頼を寄せる弟・大長谷王子(おおはつせのみこ、のちの雄略天皇)がいました。天皇はこの弟のためによい伴侶を、と心を配り、異母兄にあたる大日下王(おおくさかのみこ)の妹・若日下部王(わかくさかべのみこ)を娶らせようと思い立ちます。そこで縁談の使者として、家臣の根使主(ねのおみ)を大日下王のもとへ遣わしました。大日下王は、かつて安康天皇自身の即位にも協力した有力な豪族であり、両者のあいだにはもともと深い信頼関係があったといいます。それだけに、このあとに起こる出来事は、なおさら理不尽なものに映ります。
大日下王はこの申し出を大いに喜び、二つ返事で承知します。そして縁談が成った証として、押木玉縵(おしきのたまかづら)という美しく輝く宝物を天皇に献上しようとしました。ところが使者に立った根使主は、その宝のあまりの美しさに目がくらみ、これを自分のものにしたいという欲に駆られてしまいます。彼は宝物をそっくり横取りしたうえで、宮に戻ると、あろうことか「大日下王は妹を差し出すことを拒み、天皇を侮るような無礼な言葉を口にしておりました」と、まったくの偽りを報告してしまいました。これを真に受けた安康天皇は激しく怒り、兵を差し向けて大日下王を討たせてしまいます。何も知らぬまま、ひとりの豪族の命が、縁談の使者のささやかな欲のために奪われてしまったのです。
天皇はさらに、討ち取った大日下王の妻であった中蒂姫命(なかしひめのみこと)を奪い、自らの后として宮に迎え入れます。中蒂姫には、亡き先夫とのあいだに生まれたばかりの幼い男児がいました。これが目弱王です。父を殺され、母を奪われたこの子は、そうとは知らぬまま、実の父を討った当の安康天皇の宮のなかで、大切に育てられることになりました。
父を失った経緯も知らぬまま、目弱王は母とともに安康天皇の宮で大切に養われ、七つほどの年頃になっていました。歳月が流れ、少しずつ物心のつく年頃へと育っていくその日々のなかで、ある日、安康天皇は后である中蒂姫の膝を枕にしてうたた寝をしながら、ふと胸の内を漏らしました。「わたしはいつも、この子が成長し、父の仇がわたしであると知ったときのことが恐ろしくてならない」――その独り言を、ちょうど傍らで遊んでいた当の目弱王が耳にしてしまったのです。すべての真実を知った少年は、天皇が眠りに落ちたその隙をついて、傍らに置かれていた太刀をそっと手に取り、その首を斬り落としました。まだ幼さの残る子どもの手による、あまりにも唐突で凄惨な結末が、古事記には驚くほど淡々とした筆致で記されています。
事件を知った大長谷王子は、烈火のごとく怒り狂いました。彼はまず、事件への関与を疑った自分の兄たち――黒日子王(くろひこのみこ)、白日子王(しろひこのみこ)――をも問答無用で次々に手にかけたうえで、目弱王が逃げ込んだ円大臣(つぶらのおおみ)の屋敷を、軍勢で幾重にも取り囲みます。円大臣は娘の訳語田宮(からのさだのみや)を差し出し、その身代わりにどうか許しをと懇願しますが、大長谷王子はこれを頑として退け、屋敷そのものに火を放ちました。目弱王も円大臣も、燃え盛る屋敷とともに命を落としています。
血の粛清は、ここでもまだ終わりません。大長谷王子は、皇位継承の有力な候補者であった従兄弟の市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)をも、「共に近江で狩りをしよう」と偽って誘い出し、獲物を追って油断したところを矢で射殺すという、卑劣なだまし討ちにかけました。市辺之忍歯王に仕えていた舎人たちは主君の遺骸を秘かに埋葬し、その幼い遺児たちは追っ手を逃れて播磨の地へと身を隠したと伝えられています。この遺児たちが、のちにふたたび歴史の表舞台に呼び戻されることになるのですが、それはまた別の物語です。皮肉なことに、この一連の粛清の過程で、当初の縁談の相手であった若日下部王は結局、大長谷王子みずからの妃として迎えられることになりました。ひとつの縁談から始まった悲劇が、巡りめぐって当の縁談を成就させるという、なんとも皮肉な結末です。こうして自分より血筋の近いライバルをことごとく葬り去った大長谷王子は、この後まもなく即位して雄略天皇となります。後世、この天皇はその荒々しい治世ゆえに「大悪天皇」とも呼ばれ、恐れと畏怖の入り混じった逸話の数々とともに語り継がれていくことになるのです。
実際には
幼子が昼寝中の天皇を手にかけ、それを発端として骨肉の粛清が芋づる式に連鎖していく――この物語をどう読むかについては、研究者のあいだでも見方が大きく分かれています。文字どおりの史実の記録なのか、それとも後世の手による脚色や創作が色濃く加わっているのか。ここでは代表的な三つの解釈を順に見ていきましょう。
学説A 五世紀王権の抗争を映す史実反映説
ひとつは、この物語の背後に、五世紀後半の大王家における実際の権力抗争があったとする見方です。記紀に記されたこの時代の骨肉の争いの記述を、中国の史書に「倭の五王」として登場する時期の大王位継承の不安定さを反映するものとして捉え、允恭天皇の子どもたちのあいだで実際に深刻な内紛が生じ、それが世代を経て伝承のなかに形を変えて残った可能性を考える立場もあります。考古学の面でも、五世紀後半の畿内では大王墓と目される巨大前方後円墳の造営動向に変化がうかがえるという指摘があり、文献の伝える「兄弟や従兄弟が次々に命を落とす王位継承」が、まったくの絵空事ではなく、当時の実際の政治的緊張をなんらかの形で映し出している可能性を示す材料として注目されることがあります。目弱王の変から市辺之忍歯王の暗殺に至る一連の粛清も、こうした実際の権力闘争の生々しい記憶が核になっているのではないか、という見立てです。この立場をとる研究者たちは、たとえ登場人物の年齢や会話の細部が誇張されていたとしても、複数の有力な皇位継承候補が短期間のうちに次々と命を落としたという大枠の出来事そのものは、なんらかの史実を土台にしていると考える傾向があります。
学説B 王権の正統性を語るための文学的造作説
これに対して、物語としての作為性をより重く見る立場もあります。近代以降の文献批判的な立場では、記紀に記された伝承の多くが、六世紀以降の朝廷において帝紀・旧辞が編纂される過程で、当時の政治的な要請に沿って理念的に組み立て直されたものであるとし、そこに記された会話や心理描写までを、そのまま史実の記録として鵜呑みにすることには慎重であるべきだと論じられてきました。この視点に立てば、目弱王の変の物語は、雄略天皇という「荒々しくも力強い大王」の誕生を印象づけ、その即位の正統性を、欲に負けた讒言者と、父の仇を討つ幼い復讐者という劇的な対比によって語るために組み立てられた、いわば王権神話的な脚色である可能性が浮かび上がってきます。史実の骨格そのものは存在したとしても、細部の台詞や場面構成には、のちの編纂者による物語的な整形が加えられていると考えるわけです。天皇が眠りながら本心を漏らし、それを幼子がたまたま聞いてしまうという劇的すぎる展開も、この立場からすれば、読み手を引き込むために練り上げられた語りの技巧として理解しやすくなります。
学説C 祟りと因果応報のドラマとして読む物語構造説
三つめは、この物語を歴史的事実の記録としてよりも、古代人の抱いた「祟り」や「怨霊」への畏れを映す物語の類型として読み解く立場です。民俗学では、古代の王権をめぐる物語の底流に、非業の死を遂げた者の怨みが新たな災いを呼び寄せるという発想が色濃く流れているとする見方があります。古事記の悲劇的なエピソード群には、単なる出来事の記録を超えて、聞き手の心を揺さぶるために長い年月をかけて磨き上げられてきた「語りの技法」が随所にちりばめられているという見方もあります。この見方に立てば、根使主の欲に始まる讒言、それによる大日下王の非業の死、幼子による復讐、そして大長谷王子によるさらなる粛清へと続く一連の流れは、ひとつの悪意や欲望が次なる悲劇を呼び寄せるという、古代の人々が共有していた因果応報の物語構造そのものとして味わうことができるでしょう。民俗学の視点からは、非業に死んだ者の霊を鎮めるための語りが、こうした血なまぐさい説話のかたちをとって伝えられてきたのではないか、という指摘もなされています。
比較神話学から見る血の連鎖
王位や財産をめぐって肉親どうしが次々に血を流し合うという物語の型は、決して日本だけのものではありません。ギリシア神話に伝わる「アトレウス家の呪い」はその好例といえるでしょう。祖タンタロスの罪に始まる一族の物語は、父が子を、兄が弟を手にかける凄惨な連鎖として何世代にもわたって語り継がれ、最終的にはアガメムノン王の子オレステスが実の母を手にかけるところまで続いていきます。目弱王が父の仇である安康天皇を討ち、その報復として大長谷王子がさらに多くの血を流すという構図は、王権をめぐる復讐が次なる復讐を呼び込むというギリシア悲劇の骨格と、驚くほどよく似た輪郭を描いています。洋の東西を問わず、権力の継承にはしばしば血の代償が伴うのだという、古代の人々に共通する感覚が、こうした物語群の背後に横たわっているのかもしれません。旧約聖書に描かれるダビデ王の一族の物語にも、王位をめぐって息子たちが互いに争い、命を落としていく挿話が繰り返し登場します。特定の地域や宗教に限らず、王権という大きな権力の継承が、しばしば親子や兄弟のあいだの血なまぐさい争いをともなって語られるのは、古代社会に広く共有された、ある種の普遍的な物語の型なのかもしれません。
目弱王の変とそれに続く一連の粛清を、五世紀の政治抗争の生々しい記憶と見るか、雄略天皇の即位を彩るために編まれた王権神話と見るか、それとも祟りと因果応報を語る物語のドラマと見るか。答えは一つに決まらないというのが、今日の研究がたどり着いている地点だといえるでしょう。三つの解釈は互いに排他的なものではなく、ひとつの出来事のなかに、史実の断片と、王権を語るための脚色と、古代人の抱いた祟りへの畏れとが幾重にも重なり合っているのだと考えることもできます。いずれの見方にも相応の根拠があり、むしろその重なり合いのなかにこそ、古事記という書物の奥行きが宿っているようにも思われます。
おわりに――次回予告
こうして数々の血を流しながら即位した雄略天皇でしたが、その治世は暴虐な逸話ばかりで彩られているわけではありません。ある日、葛城山(かつらぎさん)に狩りに出た雄略天皇は、山道の向こうから、自分とまったく同じ姿かたち、同じ装束の一行がやってくるのに出くわします。怪しんで問いただすと、相手はみずからを「一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)」と名乗る神でした。人間の王が、神と正面から向き合い、対等に言葉を交わすという、古事記のなかでも異色の場面です。血を流し続けてきた「大悪天皇」が、なぜこのとき神と対峙することになったのか、そしてその出会いは何をもたらしたのか。次回は、この雄略天皇と一言主大神の不思議な邂逅の物語をたどっていきます。
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この記事のより詳しい考証パートは、note連載「古事記、深掘り。」でもお楽しみいただけます。
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参考文献
- 三浦佑之『口語訳 古事記――人代篇』(文春文庫、文藝春秋、2006年12月)
- 西宮一民 校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 古事記』(新潮社、2014年10月)
※学説の紹介は、各分野の研究の見方を筆者がまとめたものです。正確を期していますが、誤りに気づかれた場合はお問い合わせページからお知らせください。
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