
前回のおさらいと、今回の舞台
前回は、三輪川(みわがわ)のほとりで若き日に出会った雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)と引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)が、八十年という気の遠くなるような歳月を経て再会するという、古事記のなかでもとりわけ切ない物語をご紹介しました。宮中に召し出すという約束だけを支えに老いるまで待ち続けた女性の一途さと、長い年月のあいだにその約束をすっかり忘れていた帝の戸惑い。そこには、口にした言葉がそのまま力を持つとされた、言霊(ことだま)という古代の信仰の重みが静かに描かれていました。
雄略天皇という、ある意味で古事記の英雄譚の最後の大きな山をひとつ越えたあと、物語は次第に終章へと近づいていきます。実在性の濃い大王として知られる雄略天皇のあと、古事記はしばらくのあいだ、淡々とした天皇の系譜記事が続く時代に入っていきます。今回の舞台は、そのなかの一人、雄略天皇のあとを継いだ清寧天皇(せいねいてんのう)の時代です。華やかな事績がことさら多く語られるわけではないこの時代に、古事記はなぜかひとつだけ、強く印象に残る場面を書き残しています。それが、宮中からほど遠い播磨(はりま)の片田舎に身を隠していた二人の皇子が、思いがけない宴の席で見いだされるという物語です。皇位継承をめぐる血なまぐさい争いの記憶がまだ生々しく残るなかで、都から遠く離れた土地にひっそりと生きていた少年たちが、どのようにして歴史の表舞台に呼び戻されることになったのか。今回はその顛末をたどってみたいと思います。
物語
雄略天皇が崩御したのち、その御子である白髪命(しらがのみこと)が即位し、清寧天皇となりました。生まれながらに白髪であったと伝えられるこの天皇の御代、宮中は静かな時を過ごしていたようです。ところが清寧天皇には后もなく、御子を得ることもないまま、月日だけが過ぎていきます。次の世代へと皇統を継ぐべき者がいない――これは古代の王権にとって、国の根幹を揺るがしかねない重大事でした。
ここで物語は時をさかのぼります。かつて雄略天皇が即位する前、皇位をめぐる激しい争いのなかで、市辺之忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ)という皇子が、狩りに誘われた先でだまし討ちのように命を奪われるという悲劇がありました。父を殺されたその御子たち、意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)(日本書紀では億計王・弘計王と表記されます)の兄弟は、迫りくる追っ手の目を逃れるため、わずかな供回りとともに都を離れます。山代(やましろ)の国を経て(日本書紀では丹波とされています)、さらに西へ西へと落ち延びた二人は、やがて播磨国(はりまのくに)へとたどり着きました。身分を明かせば命が危ういと知る二人は、名も名乗らぬまま、土地の豪族のもとに身を寄せ、牛や馬の世話をする下働きの身となって、人目を忍ぶ長い歳月を過ごすことになったのです。
時は流れ、清寧天皇の御代のことです。播磨国の国司であった山部連小楯(やまべのむらじおだて)が、志自牟(しじむ)という土地の豪族が新築の家を祝って開いた宴を訪れました。この新室(にいむろ)の宴の場には、下働きの身のまま、かの二人の兄弟も、座敷のそばの竈(かまど)で火を焚く役を務めていました。酒がまわり、灯りがいくつも灯され、座が大いに盛り上がるなかで、居合わせた者たちが順々に立って舞を舞い、歌を歌うという座興が始まります。
長い潜伏の歳月のあいだ、二人は日々牛や馬の世話に明け暮れながら、言葉遣いひとつ、ふるまいひとつにも気を配り、自分たちが高貴な血筋であることを決して悟られぬよう、細心の注意を払って暮らしてきました。もし正体が露見すれば、父と同じように命を落とすかもしれない――そうした緊張を胸の奥にしまい込んだまま迎えたこの宴の夜、杯を重ねるうちに、長年押し殺してきた思いが抑えきれなくなっていきます。一人また一人と歌い終え、座が進んでいくうちに、まだ舞っていなかった二人の少年に、ついに順番がまわってきました。兄の意祁王は弟に先に舞うよう促し、弟の袁祁王もまた兄を立てて譲ろうとします。そうした兄弟らしい譲り合いの末に、ついに弟の袁祁王が立ち上がり、舞いながら歌を歌いはじめました。その歌は、はじめのうちは土地の情景や酒宴のめでたさを詠うだけのものに聞こえました。しかし歌が進むにつれて、言葉の端々に、都の高貴な血筋に連なる者であることをほのめかす謎かけが織り込まれていきます。そして最後には、父がかつて非業の死を遂げたこと、自分たちがその血を引く者であることまでもが、歌のなかにはっきりと示されたのです。
酒宴の席でまさか、と誰もが聞き流しかけたその瞬間、歌の真意を悟った山部連小楯は顔色を変え、驚きのあまり座から転げ落ちんばかりであったと伝えられます。小楯はただちに居住まいを正し、二人の前にひれ伏すと、涙ながらにその素性を満座の前で明かしました。宴の場は騒然となり、牛飼い・馬飼いとして下働きをしていたはずの少年たちが、実は亡き皇子の忘れ形見であったという事実に、人々は言葉を失ったといいます。
こうして見いだされた兄弟は、ただちに都へと迎えられ、宮中で手厚くもてなされることになりました。皇位を継ぐべき者のいなかった清寧天皇にとって、これはまさに天の配剤というべき出来事でした。のちに清寧天皇が崩じたあと、まず弟の袁祁王が即位して顕宗天皇(けんぞうてんのう)となり、ついで兄の意祁王が仁賢天皇(にんけんてんのう)として即位します。都の片隅どころか国の外れで牛馬の世話をしていた兄弟が、一夜の宴をきっかけに巡り巡って帝位にのぼる――古事記の後半を彩る、劇的な身分逆転の物語です。
実際には
この「発見される皇子たち」の物語は、古事記のなかでもとりわけ説話性が強く、研究者たちのあいだでもさまざまな読み方が提示されてきました。ここでは代表的な三つの見方を順に紹介してみたいと思います。
学説A――貴種流離譚としての造形
まず広く知られているのが、この物語を「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」という古い物語の型のひとつとして捉える見方です。高貴な生まれでありながら不遇のうちに身をやつして流浪し、やがて何らかのきっかけで正体を現し、本来の地位に返り咲く――という構造は、日本の古代文学のなかに繰り返し現れるパターンです。貴い者が一時的に賤しい姿に身をやつすという発想は、古代の信仰や芸能のあり方とも結びつけて論じられてきました。民俗学の分野で語られてきた「まれびと」――時を定めて異界から訪れ、人々に福をもたらす神――という発想になぞらえるなら、賤しい牛飼いの姿で宴に紛れ込んでいた少年が、一夜にして高貴な皇子としての本性を現すという筋立ては、日本の古代人が好んで物語に求めた、ある種の宗教的な感興とも深く通じ合うものだったと考えることができます。この見方に立てば、牛飼いとしての苦労の歳月や、宴の席で歌によって正体を明かすという劇的な演出そのものが、史実の忠実な記録というより、物語を印象深く仕上げるために繰り返し用いられてきた、伝統的な語りの技法のひとつであったと考えられることになります。
学説B――王権継承の正統性を語る物語としての解釈
もうひとつの見方は、この説話が果たしていた政治的な機能に着目するものです。古事記に収められた物語の多くを、単なる娯楽としてではなく、特定の血統が皇位を継ぐことの正しさを語り伝える役割を持つものとして読む立場があります。この立場からすれば、意祁王・袁祁王の発見譚は、本来は傍流に追いやられ、滅ぼされかけていた皇統が、長い艱難辛苦の末にようやく正統な地位を取り戻すという筋立てを通じて、顕宗・仁賢という二代の天皇の即位そのものを正当化する役割を担っていたと考えることができます。苦労を重ねた末にようやく迎えられた帝位であるからこそ、その即位にはいっそう重みと正統性が与えられる、という語りの構造がここにはあるというわけです。言い換えれば、この物語を語り継ぐこと自体が、顕宗・仁賢という二代の天皇の子孫にとって、自らの血筋の正しさを人々に納得させるための、一種の政治的な装置として機能していたとも考えられるのです。
学説C――史実の反映としての慎重な評価
一方で、こうした説話的な脚色がある程度は認められるとしても、物語全体をまったくの創作と割り切ってしまうことには慎重であるべきだ、とする立場もあります。近代以降の文献批判を重んじる歴史学では、記紀の記述をあくまで批判的に読み解き、神話的・説話的な潤色が色濃く加えられている部分と、何らかの史実の核を伝えていると見てよい部分とを、丁寧に見極めようとする姿勢が取られてきました。五世紀後半は、大王の位をめぐって複数の血筋が争い合う、決して平穏とは言えない時代であったと考えられています。この立場に立てば、宴の情景や歌の内容そのものには後代の潤色が色濃く認められるとしても、「政争に敗れた傍系の皇子が一時身を隠し、のちに迎えられて即位した」という大枠そのものは、当時の王位継承をめぐる現実の緊張関係を、何らかの形で反映している可能性が残ることになります。
世界の神話との比較――隠れていた王の発見
身分を隠した高貴な人物が、思いがけない場で本来の正体を現すという物語の型は、決して日本だけのものではありません。ギリシア神話では、英雄テセウスが幼い頃に父アイゲウス王のもとを離れて育ち、やがて父が岩の下に隠しておいた剣とサンダルを持って都を訪れることで、初めて父子であることが明かされます。また旧約聖書に描かれるダビデの物語でも、羊の群れの番をするだけの末の息子にすぎなかった少年が、預言者サムエルによって油を注がれ、思いがけず次代の王として選び出されるという劇的な転換が語られています。身分の低い場に置かれていた者が、ある出来事をきっかけに本来の高貴な出自を現す――この普遍的なモチーフは、新しい王の即位に特別な重みと正統性を与える装置として、洋の東西を問わず好んで用いられてきたと見ることができるでしょう。意祁王・袁祁王の物語もまた、こうした人類に広く共有された語りの型の、ひとつの日本的な現れとして位置づけることができるのかもしれません。
このように見てくると、意祁王・袁祁王の発見譚を、純粋な史実の記録として読むべきか、それとも王権の正統性をあとから語り直すために編まれた物語として読むべきか、答えは一つに決まらないというのが正直なところです。貴種流離譚としての文学的な造形を重んじる立場、王権継承の正当化という政治的機能に注目する立場、そして慎重に史実の反映を探ろうとする立場――そのいずれもが、それぞれに古事記というテキストの奥行きと厚みを示してくれているように思われます。
おわりに――次回予告
隠れ里の牛飼いであった意祁王・袁祁王の兄弟は、こうして無事に都へと迎えられ、やがて相次いで帝位にのぼりました。しかし二人の物語はこれで終わりではありません。父市辺之忍歯別王を謀殺された恨みを、長い年月のあいだ胸に秘めてきた二人が、即位ののちにどのように受け止め、どのような形で決着をつけようとしたのか――次回は、顕宗天皇となった弟・袁祁王が、父の仇に対してとった知られざる行動をめぐるエピソードを取り上げたいと思います。古事記も終盤に差しかかる、静かでありながら底に強い感情を秘めた物語に、どうぞご期待ください。
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前回の記事:八十年の約束――雄略天皇と引田部赤猪子の物語
古事記シリーズの考証パートは、note連載「古事記、深掘り。」でもお楽しみいただけます。
▶ シリーズ全記事のまとめはこちら:古事記シリーズ|物語と”実際”で読む日本神話(note)
参考文献
- 三浦佑之『口語訳 古事記――人代篇』(文春文庫、文藝春秋、2006年12月)
- 西宮一民 校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 古事記』(新潮社、2014年10月)
※学説の紹介は、各分野の研究の見方を筆者がまとめたものです。正確を期していますが、誤りに気づかれた場合はお問い合わせページからお知らせください。
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