
前回の記事「父の仇を膝の上で討つ――目弱王の変と、大悪天皇雄略の粛清」では、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が皇位をめぐる血で血を洗う粛清を重ね、「大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)」とまで呼ばれるに至った経緯をたどりました。兄弟や従兄弟を次々と葬り、権力を独り占めにしていくその姿は、まさに恐怖政治そのものでした。ところが古事記は、そんな雄略天皇の物語に、不意に不思議な一場面を差し挟みます。血腥い人間界の権力闘争を描いてきた物語が、突然、神との出会いという神秘的な次元へと踏み込むのです。今回はその邂逅――雄略天皇と一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)の物語をたどっていきます。これまで見てきた雄略天皇は、あくまで人間同士の権力争いの中心にいる存在でした。しかしこのあと語られるのは、人間の理屈がまったく通用しない、神という異質な存在との対面です。あれほど強大な力を振るってきた「大悪天皇」が、山中でどのような態度をとるのか。この一場面には、古事記という書物が権力と神をどのように結びつけて描こうとしていたかを考えるうえで、大きな手がかりが隠されています。
物語
雄略天皇がある日、葛城山(かづらきやま)に登られたときのことです。天皇に従う多くの臣下たちが山道を進んでいくと、向こうの尾根を、自分たちとまったく同じ一行が歩いているのが見えました。人数も、装束の色も、立ち居振る舞いまでも、鏡に映したようにそっくりそのままです。天皇はこれを見て不審に思い、大声で尋ねられました。「この倭国(やまとのくに)に、我をおいてほかに大王(おおきみ)はいないはずだ。今、我と同じいでたちで歩いてくるのは何者か」。声を張り上げるその表情には、明らかな苛立ちと戸惑いが入り混じっていたことでしょう。何しろ自分こそが唯一無二の統治者であるはずの倭国で、自分と瓜二つの一行に出くわしたのですから、無理もありません。
すると、向こうの一行からも、まったく同じ言葉が返ってきました。天皇はいよいよ怒り、弓に矢をつがえようとします。すると相手方の人々も、まったく同じ動作で矢をつがえました。天皇がそこでようやく畏れを覚え、あらためて「それならば、名を名乗れ」と問うと、相手はこう答えました。「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離つ神、葛城の一言主大神なり」。すなわち、良いことも悪いこともただ一言で言い放ち、事の是非を決める神であると名乗ったのです。
これを聞いた天皇は非常に畏れかしこまり、「あなや、我が大神、うつしおみ(現し臣)あらむとは、覚らざりき」と述べ、自らが身に着けていた大刀や弓矢はもちろん、供の者たちの衣服までことごとく脱がせて、一言主大神に捧げものとして差し出しました。一言主大神はこれを喜んで受け取り、天皇が山を下るとき、山の峰から谷の入り口まで、わざわざ天皇を見送ってくださったといいます。人間の王が、対等な、あるいはそれ以上の存在として神と正面から向き合い、贈り物を交わして別れる――古事記の中でも際立って異色な、神と人との交わりの場面です。それまでの雄略天皇の物語では、天皇に逆らう者はことごとく討たれ、恐れられこそすれ、天皇自身が誰かに衣服まで脱いで敬意を示す場面など一度もありませんでした。その天皇が、山中で出会った一柱の神の前では、あっさりと武器も装束も手放してしまう。この落差の大きさこそが、一言主説話を古事記全体の中でひときわ印象深いものにしているのです。
実際には
この一言主大神との邂逅譚は、古事記研究者のあいだでも解釈が大きく分かれる、扱いの難しいエピソードです。血に染まった専制君主としての雄略天皇像の中に、なぜこれほど神秘的で、しかもどこか対等な神人交流の物語が挟み込まれているのか。その謎に迫るいくつかの見方を見ていきましょう。なお、一言主大神という神格そのものは、現在も奈良県御所市の葛城一言主神社に祀られ、「一言(ひとこと)の願いなら何でも聞き届けてくれる神」として、今もなお多くの参拝者を集めています。千数百年を経てなお生きた信仰として残っているという事実もまた、この説話の重みを考えるうえで見逃せません。
学説A――もう一人の自分と出会う「ドッペルゲンガー」的な神
まず注目されるのが、一言主大神が天皇と「まったく同じ姿」で現れるという点です。民俗学では、こうした神を、人間界の外からある時だけ訪れて福や言葉をもたらす「まれびと」の系譜に連なるものとして捉える見方があります。一言主は本来、託宣によって物事の吉凶をただ一言で告げる、葛城地方の土着の神であったと考えられます。天皇と瓜二つの姿で現れるのは、この神が人間の姿を借りて顕現する存在であったこと、そして王権が地方の有力な神と出会うとき、しばしば自らの「鏡像」のような姿で相手を描くという神話特有の表現方法を示していると見ることができます。もう一人の自分に出会うという筋立ては、単なる偶然の一致ではなく、王がまつろわぬ(服従しない)強い神と対峙する緊張関係を、視覚的に際立たせる工夫だったのかもしれません。民俗学では、時を定めて海のかなたから訪れる神を「まれびと」と呼び、その神が語る聖なる言葉(呪言)に日本文学の源流を見る考え方があります。一言主が言葉そのものを司る神として描かれる点も、このまれびとの発想と重ね合わせて読むことができます。ただし、これはその概念を一言主説話に当てはめた一つの読み方であり、定説というわけではありません。
学説B――大和王権による葛城氏の伝承の取り込み
もう一つ有力なのが、これを葛城地方の豪族である葛城氏(かづらきうじ)の信仰や伝承を、大和王権の物語のなかに取り込んだ痕跡と見る立場です。葛城の地は、雄略天皇の時代に至るまで、大王家と婚姻関係を結んだ有力な葛城氏が勢力を張っていた土地でした。考古学の成果からも、五世紀の大和政権は、まだ単一の強大な中央集権国家ではなく、葛城氏のような有力豪族との連携や緊張関係のなかで、少しずつ王権を確立していく途上にあったと考えられています。一言主大神は、まさにその葛城氏が祀っていた地元の神であったと考えられ、この物語は、大王家が地方の有力な神(そして、その背後にいる豪族)と正面から向き合い、時に頭を下げてでも敬意を払う必要があった、五世紀のヤマト王権の実際の力関係を、神話という形で伝えているのではないかという見方です。天皇が最終的に衣服や武具を差し出すという展開は、対等、あるいはそれ以上の相手への「奉納」を意味しており、中央の王権が地方神を完全には服従させきれなかった歴史の記憶とも読めます。実際、稲荷山古墳出土の鉄剣に「ワカタケル大王」の名が刻まれていたことからもうかがえるように、五世紀後半のヤマト王権はすでに広い範囲に影響力を及ぼしていた一方で、その統治のあり方は後世のような整然とした中央集権体制とは大きく異なり、各地の豪族や神々との個別の関係の積み重ねの上に成り立っていたと考えられています。一言主説話は、そうした在地勢力との緊張関係の記憶が、神話という装いのもとで語り継がれた結果なのかもしれません。
学説C――王権神話としての潤色、そして後の伝承の変容
一方で、より文献批判的な立場からは、この説話自体が古事記編纂の過程でかなり整えられた、王権を荘厳するための物語であるという見方も示されています。近代以降の歴史学では、記紀の神話や伝承の多くについて、史実の忠実な記録ではなく、後の時代の政治的・思想的な意図のもとに構成された文学的所産であるという批判的な視点を早くから示されてきました。一言主説話についても、天皇が最終的に神から敬われ、見送られるという結末に注目すれば、これは天皇の権威がいかなる強大な地方神をも上回るものであることを示す、王権讃美の物語として読むことができます。興味深いことに、同じ一言主と雄略天皇の出会いは、日本書紀ではやや異なる筆致で描かれ、葛城山での鹿狩りをめぐる神との駆け引きとして語られています。さらに時代が下った続日本紀(しょくにほんぎ)には、一言主神が不敬のかどで土佐国へ流されたという記事まで現れます。同じ神をめぐる伝承が、時代とともに「天皇と対等な神」から「天皇に従わせるべき神」へと少しずつ姿を変えていく過程そのものが、王権と地方神との関係が歴史のなかで移り変わっていったことを物語っているとする見方もあります。雄略天皇の事績を伝える説話には、実際の史実と、後の時代の宮廷で潤色された要素とが分かちがたく織り込まれているとする見方もあり、一言主説話もその一例なのかもしれません。のちに山岳修行の祖とされる役小角(えんのおづぬ)が一言主神を使役したという伝承が生まれ、さらに葛城の地が修験道の霊場として発展していくことを考え合わせると、一言主という神格そのものが、時代を経るごとに位置づけを変えながら、長く人々の信仰を集め続けてきたことがわかります。
世界の神話との比較――人が神と正面から出会うとき
人間の王や英雄が、旅の途上で思いがけず神そのものと正面から出会い、対話し、時に格闘するという物語の型は、日本の神話に限られたものではありません。旧約聖書の創世記三十二章には、ヤコブが夜、ヤボク川のほとりで見知らぬ者と夜通し格闘し、その相手が神(あるいは神の使い)であったと悟って「わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている」と驚く場面があります。比較神話学の視点から見れば、こうした「人間が神と直接に対面し、その正体を後から知って畏れる」という構図は、世界各地の神話に見られるモチーフでもあります。ギリシア神話でも、ゼウスやヘルメスが人間の姿に身をやつして地上を旅し、それと知らずに応対した人間が後に神の正体を知って驚き畏れるという逸話が数多く語られています。一言主大神が天皇とうり二つの姿で現れるという設定は、こうした「神が人の姿を借りてこの世に現れる」という人類共通の想像力の型に連なるものとして眺めると、単なる日本固有の奇譚ではなく、人が超越的な存在とどう向き合ってきたかという、より大きな物語の一齣として見えてきます。東南アジアに広く伝わる死の起源説話でも、神の使いと人間との間で言葉が取り違えられたり、姿を見誤ったりしたことがきっかけで、人間が永遠の命を失い、死すべき存在になってしまったと語られることがあります。姿や言葉の取り違えが、神と人との関係を決定的に変えてしまうという点で、一言主説話とどこか通じ合うものを感じさせます。
こうして見てくると、一言主大神との邂逅は、まれびと(来訪神)に通じる性格、葛城氏という具体的な政治勢力の記憶、そして王権を荘厳するための文学的な潤色という、幾重もの層が重なり合ってできあがった物語であるらしいことが見えてきます。古事記の語りには複数の伝承の流れが折り重なっているとする見方もあり、一言主説話もまた一つの読み方には収まりきらない、重層的なテクストなのでしょう。まれびと的な宗教的解釈が正しいのか、豪族との勢力関係の反映なのか、それとも王権讃美のための後代の潤色が色濃いのか。おそらく、答えは一つに決まりません。この物語のどこか落ち着かない不思議な手触りは、そうした複数の読み方がせめぎ合う、まさにその隙間から生まれているのかもしれません。
おわりに――次回予告
葛城山で神と対峙し、頭を垂れて贈り物を捧げた雄略天皇。しかしこの后妃と皇子を次々に退けてきた「大悪天皇」の物語には、まだ続きがあります。次回は、雄略天皇がかつて若き日に結んだひとつの約束と、それを八十年ものあいだ守り続けた一人の女性、引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)との、切なくも忘れがたい物語をたどっていきます。神との邂逅では威儀を正して畏まった雄略天皇が、一人の女性との約束をめぐっては、また異なる顔を見せることになります。「大悪天皇」と呼ばれた一人の人間の、様々な側面を追う旅は、まだしばらく続きます。
あわせて読みたい
この記事のより詳しい考証パートは、note連載「古事記、深掘り。」でもお楽しみいただけます。
▶ この回のnote本編はこちら:古事記、深掘り。(note)
参考文献
- 三浦佑之『口語訳 古事記――人代篇』(文春文庫、文藝春秋、2006年12月)
- 西宮一民 校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 古事記』(新潮社、2014年10月)
※学説の紹介は、各分野の研究の見方を筆者がまとめたものです。正確を期していますが、誤りに気づかれた場合はお問い合わせページからお知らせください。
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